悠久の片隅

日々の記録

遠くはるばるやってきた仏像

司馬遼太郎全講演〈3〉1985‐1988(1) (朝日文庫)/司馬 遼太郎

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読了。

数字のゼロは、インドで生まれた。

ゼロから生まれ、死んでゼロとなる。

ゼロなのだからお墓の概念も無い。

母なる川、ガンジス川に返り、また生まれる。

お釈迦さまの仏教は、インドから日本に渡ってくる間にずいぶん様変わりしてしまった。

お墓を作る、戒名をつける、お位牌を守る。

このように形式を重んじるのは、中国儒教の影響なのか。

葬儀代の高さは世界でもケタ違いでしょう。

これも、もしかすると停滞かもしれない。

『仏教には仏像というものがありますね。

阿弥陀さんはこういう顔をしていらっしゃるとか、観音様はこうだとか、いろいろあります。

しかし、お釈迦さんのときには仏像なんてありませんでした。

お釈迦さんの弟子たちたちも仏像は見たことがありません。

奈良の東大寺に行くと、盧舎那仏がありますが、ああいうものをお釈迦さんも弟子も知らず、彼らはあくまで理論物理学者のように、頭の中で仏様を考えていたようですね。

つまり、古代のインド人は物事を形而上的に考えるのが好きだった。形而上というのは目に見えないものです。

反対に形而下とは目に見える。

インド人は形而上的に考えることが好きで、上手で、人類史上のチャンピオンだったかもしれません。

ですから彼らは仏画や仏像を考えもしませんでしたし、用いもしなかった。

お釈迦さんが亡くなり百年以上たってから、仏教は北上しました。

インドの北方、アフガニスタンパキスタンといったあたりです。

当時そのあたりにはギリシャ人が住んでいました。

アレクサンダー大王という、ヨーロッパが生んだ大英雄がいて、ギリシャの軍隊を東へ東へ、

つまりアジアに連れてきていました。アフガニスタンのあたりまで来てアレクサンダーは若くして死んでしまいますが、兵隊たちは残ります。

彼らも遠くから来てくたびれもしたのでしょう。また奥さんも欲しくなっていました。

アレクサンダーは土地の娘さんと結婚せよと兵隊さんたちに言っていましたから、多くの者が土地にとどまり結婚した。

やがて軍隊というより村になったんですね。そして歴史は流れて、南からインド人がやってきて仏教を伝えた。

するとアレクサンダーの兵隊の子孫たちは大変に驚いたのです。そんな素晴らしい教えは聞いたことがない。

ぜひ彫刻の形にしてくれないかと。ビーナス像とかアポロ像などを想像してください。

ギリシャ人は、人類が最初に持った彫刻の上手な民族でした。

まだわれわれが弥生式の埴輪さえつくっていない時代です。

他の民族だって、味はあるものの人間だかタヌキだかわからないようなものを彫刻していた時代に、

ギリシャ人たちはリアリズムに目覚めていたんです。ギリシャ人が残した建築、石像は大変なものでした。

世界の中に、絶対にすぐれているといった民族はありませんが、それぞれお得意の分野があり、苦手な分野があるんですね。

彫刻が得意なギリシャ人たちが、宗教的にはそれほど高いレベルにはいなかったようです。

彼らはビーナスを繁栄の女神としていまして、ビーナス像をつくる職人は多かった。

アレクサンダーの軍隊にも帯同していたんでしょうね。素晴らしい教えを聞いて彫刻にしようと思った。

われわれは彫刻なら得意なんだと頑張ってできたのが、有名なガンダーラの仏像です。あの仏像は西洋人の顔をしているでしょう。

ギリシャ人、あるいはギリシャ人の子孫が自分たちの顔に似せてつくったわけですから、当然ですね。

さらに時代が下がり、ガンダーラの仏像はシルクロードを通って中国に入り、朝鮮半島にゆっくり滞在したあと、日本に入ってきた。』

 

ギリシャとオリエントの融合。ヘレニズム文化・・・かな。

インドからガンダーラへ、そしてシルクロードを経て中国、朝鮮半島、そして海を渡り日本へやってきた仏像。

どれだけ多くの民族の文化を載せて日本へ到達したか思いを馳せ、

時に民族は血を流し、様々な苦労や願いを刻みながら何百年もかけ、

「よくぞいらっしゃいました。」と、思う。

親鸞が、自分の先祖のみの供養など必要ないようなこと言っていたけど、

今ここに在る自分は、遠くヨーロッパ、インド、中国のみならず、この世に生を受けたすべて、

石ころひとつでも、すべて今の自分に受け継がれている。

すべてが敬う存在で、自分の先祖だけという感覚は自分よがりといえるのかも。

供養するなら宇宙レベルでの供養ってことかな。哲学的だな~。