悠久の片隅

日々の記録

<a href="http://ameblo.jp/fujiko-diary/entry-10365060242.html">許されぬ過ち。</a>

日野原先生の言葉。

感性なくして病む人のケアはできない。

これをしてしまったのが私です。

父が病気になった時、

筋力の衰えを少しでも補うため、お医者様はリハビリをした方がいいと言った。

リハビリの先生も熱く勧めるので、私は週に一度父をリハビリに連れて行くことにした。

でも、父は何かにつけ、リハビリを休みたがった。

父「なんだか今日は体調が悪い。」

私「やらなきゃダメなんだよ。」

リハビリの日は、毎回そんなことの繰り返し。

本当につらかったのだと思う。

リハビリを続けていても、進行性の病気はどんどん進み、あっという間に寝たきりになってしまった。

あとになって、

本人があれほどまでにイヤがっていたのに無理に行かせてしまったこと、

とても後悔してる。

そりゃ、やった方がいいとお医者様は言ったけど、

多大なストレスになるほどのことを強制的にさせる権利など誰にもない。

身体より心の方が大切なのに。

心に力がついた時、初めて身体もついてくるのだと今は思う。

それを、正義をふりかざすかのように私は

「行かなきゃダメなんだよ。」と。

正しければ、何を言ってもいいわけじゃない。

健康な者が上から目線で、弱っている人間に、さも当然のように言う。

身内なだけに容赦がない。

父は、本当につらそうにしてたし、嫌がってた。

それでも、トレパンに着替えさせ、タオルと連絡帳をバッグに詰め送り出してた。

それが私の使命のように。

今もその時の残されたノートを見ると申し訳無さで苦しくなる。

足上げ、バイク、平行棒、etc

身体が動かなくなっていく人間に、なんでこんなことをさせてしまったんだろう。

良くなることを信じてするならかまわない。

でも、私は心の中で

進行性の病気がリハビリで良くなるなんてことは無いだろう・・・と思ってた。

行ってもらうのは、なんの治療法もなく、ただ手をこまねいて見ているだけ・・・

そんな難病に対して、単なる私自身の気休めだったのだと思う。

もうどれだけ後悔しても遅い。本当に可哀相なことをしてしまったと思ってる。

もちろん、4回に1回、3回に1回はお休みしてたけど、

でも、心の負担は同じだ。

行かせたのは、単なる嫌がらせにしかならない。

感性をもたずに看護をした私の罪です。

父のことが好きだったかと言えば、実はそうでもない。かなり苦手。

だけど、

傷つけてしまったことは本当に悪かったと、悔やんでも悔やみきれない。

好きでも嫌いでも、傷つけたらいけなかった。

多分私は死ぬまで悔やむ。

介護の日々は地獄だったけど

今、もしひとつ願いが叶うなら、もう1度だけ父の面倒をみたい。

偽善と思われてもかまわない。ただの罪悪感だ。

それほどの罪を犯したと思ってる。

何でも出来るなんて思ってはいない。そうそう優しくも出来ない。

ただ、少なくとも傷つけることだけはしない。無理はさせない。

人はそれぞれ心の強さも身体の強さも違う。

父は、その時すでに心を病んでいた。

それなのに。

私は罪を犯したのに謝るべき相手がいない。裁かれることもない。

そこに救いは無い。一生無い。

傷つけたまま死んでしまって、参る、ホント参る。

死んで初めて様々なことに気付かされた。

父は、自分の死をもって私にいくつかの過ちを教えてくれた。

そうでしか、私は気付くことは出来なかった。

そう思うと、親には感謝しかない。

親は生きてる間、立派でなくたっていい。

死をもって教えるなどということは、親以外出来ないんだからそれだけでいい。

人間はいくら知識があっても、学問があっても、優しい心がなければ立派な人間とは言えない。

優しい心とは感じることである。

小林秀雄さんの言葉だそうです(日野原重明 命をみつめてより抜粋)

人の痛みを自分のこととして感じること。

感じることが出来たなら、人を傷つけることはしない。例え相手が誰であろうと。

永遠の課題です。