悠久の片隅

日々の記録

<a href="http://ameblo.jp/fujiko-diary/entry-11262056693.html">埋め尽くされた文字</a>

犠牲(サクリファイス)―わが息子・脳死の11日/柳田 邦男

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NHKを退社され執筆活動に専念されていた柳田邦男さんの次男洋二郎さんが精神を患い、

生きることに苦しみ、25歳で自ら死を選ぶ。

命はとりとめたものの脳死となり、ご家族は臓器移植を決断される。

まず衝撃を受けたのは、

読む前にカバーを外し、本の本体を見た時だった。

表紙の表も裏も、洋二郎さんの字で埋め尽くされた日記だった

藤子のブログ

これを見て私はゴッホの麦畑のような閉塞感を感じた。

人は、文字を書く時無意識のうちに

字と、何も無い空間とのバランスを適度にとりつつ、

そこに自分自身心の平静を得てると思う。

例えば、字の上手い下手と言うのは『字』だけの個の問題でなく、周りに出来た空間との釣り合い。

その何も無い『空間』との調和によって字は描かれているように思う。

彼のノートにはその空間が無い。

余白。心に余っている部分が無い。

全部全部詰めてしまって・・・

溢れる思いは山ほどあったのだと思うけど、どう文字にしても、どう行動しても、

解決出来るような、そんな単純なものでは無かったんだね・・・

こんな若い子がそんな苦しみを背負った中で生きてきた12年間は、あまりにも痛々しい。

洋二郎「もう駄目だ、死にたい」

父「どうしても駄目か」

洋二郎「もういい、死に方を教えてくれ。死にそこねて苦しむのはいやだ、

確実に死ぬ方法を知ってるだろう」

父「わかった。親父として息子を殺すことは出来ない、自分の手ではな。

だけど、そんなに死にたいなら死に方ぐらい教えてやる。

ダテや酔狂で五十何年も生きてきたんじゃねえからな。

ロープでもコードでも持ってきて、表に出ろ。連れてってやるから」私はもう本気で言ってた。

恐怖と絶望と愛との極限の父子の会話。

この時は思いとどまるも、数日後彼は自ら命をたった。

私はいとことの会話を思い出した。

いとこ「うちの娘ね・・・いつか死ぬような気がするの。」

私「ん?なんかあった?」

いとこ「これはあの子が小さい頃からずっと感じてることなのよ。いつか死ぬんじゃないかと。」

私「彼女・・・どこか儚さはあるけど・・・」

いとこ「でもね、何かあってもその時はその時って・・・

それもあの子の運命と・・・私、覚悟してる部分あるんだ・・・」

いとこは、母親としてどんな思いで子供を見つめているのだろう。

悩むわが子を心配しながらも、子供を子供でなくひとりの人間として全てを受け入れようと、

どんな愛でも、愛とは苦しみのつきまとうものだと感じる。

私「うん。誰がどれだけ近くで守ってあげたとしても、救ってあげられない命が・・・あると私も思う。」

最近特に思う。

人は、皆そういうふうにしか生きられない・・・

誰かが、どうにしかしてあげたくても、

自分だって、どうにかしたくたって、

もがいても、もがいても、何か見えないものに引きずられるように、抗えない何か、

皆それぞれのそういうふうにしか生きられないんじゃないかと。

ナイーブな感受性の持ち主は、世の中全てが五感に鋭く突き刺さってしまうのでしょうか。

自分が自分の心や身体を好きなようにコントロールしようと思うと歪みが生じる。

人は、他人(子供や恋人とかその他全部)のこともだけど

自分のことだって、人生だって、そう上手くコントロール出来るものでも無いように思う。

どんな死も受け入れることは出来ないけど、どんな死も避けられない現実もあると思っている。