悠久の片隅

日々の記録

<a href="http://ameblo.jp/fujiko-diary/entry-11268818261.html">キャッチャー・イン・ザ・ライ</a>

キャッチャー・イン・ザ・ライ/J.D.サリンジャー

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村上春樹訳の『ライ麦畑でつかまえて

若い頃にライ麦畑は読んだけど、ほとんど記憶がない。

内容に記憶はないけど、インパクトがなかったわけではない。

多分、

あらすじ的には何もないからだと思う。

ザワザワした印象で読んでた記憶がシッカリ残っている。

今回はサラっと読んじゃったけど、それが村上訳のせいか、私の年齢のせいかはわからない。

どっちにしてもこの歳で読むのは気恥ずかしい・・・

多分DBとは、サリンジャー自身でしょ。そんなことは僕(私)だってわかってるんだよ。

だけどDBがどんな目でホールデンを見てるのか、僕にはそれがわからないんだ。

まったくこの物語は、わからないことだらけなんだよ。

君も読めばきっとそう云うと思うよ。

なーんて、

ホールデン(主人公)の口調を真似をして感想を言ってみた(笑)

ホールデンは、普通の少年で、

普通に世の中を斜に見て、もう学校も友達も大人の社会も嫌いで嫌いで、反抗して、

でも全部は嫌いになれなくて、反抗しきれなくて、そうして鬱屈している自分もわかってて、

切なくて、誰にもわかってもらえなくて、

最後は、妹のまっすぐ兄を見る心にだけは逆らえず心打たれちゃうんだよね。

くだけた口調で、当時(1951年)のアメリカを感じさせながら、少年の苦悶する姿を映出したとこが

斬新だったかと。

まー、その描写の力には驚きまする。

作家の人間観察力すごいな。

それをまた、ビデオで回してるように伝えてくるとこもすごいな。

洗面所でストラドレイターにハーフネルソン(プロレス技)をかけるとこなんて、大好きだよ。

勝てないのにね(笑)

軽くあしらわれて終わっちゃうんだけど、

ホールデンはけっこう真剣だったんだよ。

その幼稚で本気なとこが周囲から邪険にされ、噛み合わない様子がたまらない。

この本を読んだのは、翻訳が村上春樹だから。

村上春樹は、1冊しか読んだことがない。

そしてドカーン!心酔した。

それこそ一字一句惚れた。

だから、

それ以降1冊も読んでない。

自分をもう少し高めてからでないと、

もったいなくて読めない・・・

その辺が、私の面倒くさいとこだとは思うけど、今はまだ尊いものとして近寄れない。

なんだか

芥川の芋粥のようになってるけどwww

それほど、村上春樹が大切で心の拠り所なのだ。

実際はもう本の内容なんてもう忘れているし、私がその中の何に感動したかも忘れてる。

そんなあやふやで実体のないものが、私の心の拠り所で、

でもその時の心の震えだけは忘れていない。

もしかしたら、その時の私だから共鳴したのであって、10年後に読むと、

なーんだ・・・

と、なるかもしれない。

だけど、そこは関係ない。

そちらに向かわせてもらった自分の感動が拠り所なのだから。

死ぬ前には必ず会いに来てくれると言ってた彼の言葉も私の心の拠り所。

それも実際会えるかは、全然問題でない。

そこを思うと、心静かに生きていられることが何よりありがたいのだから。

心の拠り所は、探して見つかるものでもないと思う。

トヨエツの詩にもあったけど

『魂はほんとうに必要なものを

自らさがしに出かける、といいます』

だから、いくら探しても見つからない答えが突然見つかったり、

運命の出会いもそういうものかな。と私は思う。

あっひらめき電球わかったひらめき電球

ホールデンは心の拠り所を失ってるんだ・・・

そんなホールデンに妹は全力で頼ってきた。

そのことに感動するんだけど、妹だって365日そういうわけでもないと思うから、

その後、ホールデンはどうしたかな。

なかなかね・・・

移りゆくものを心の拠り所にしてしまうと、一瞬は心地良いけど、難しいよね・・・