悠久の片隅

日々の記録

<a href="http://ameblo.jp/fujiko-diary/entry-11292526575.html">70%</a>

宗教は神に対する愛。愛は縛り。

恋人との関係をみれば一目瞭然。

好き勝手に他にうつつを抜かすわけにもいかず、

その行動も心も縛り、縛られる。

それがどんなに幸せであるか、どんなに苦痛でもあるか。

私はその括りの中に自分をあてはめて生きるのはいやだ。

だから宗教なんて、死んでからで充分だと思っている。

だけど、世界はキリスト教徒、イスラム教徒、ヒンズー教徒で70%を占めている。

世界の多くは宗教で成り立っている。

クラスの70%がその中で生きているのなら、

私は嫌いだとか、関係無いとか言っている場合ではない。それは知らなければならないことと思う。

はまってはダメだけど、知らなくてはならないこと。

ゼウス(神々の王)は弟ポセイドン(海の神)を呼び人類を壊滅させた。

キリスト教ノアの箱舟もそう。

インドのマツヤ神話もそう。

ギルガメシュ叙事詩もそう。

シュメールもそう。

神が人間の奢り怒り、洪水を起こし、人類を滅亡させる伝説は世界中に残っている。

これが天罰。神から人間への警告。

悪いことをした人間に罰が与えられるのは、ただの自業自得。

神はそんな甘いことしない。

それでは世の中は変わらない。

何も関係のない罪無き者に罰が与えられるから、

人々は神を畏れ、謙虚にならざるおえないのだ。

神を信じるがゆえに、殉教もする。人殺しもする。

神は罪多きものも助ける。神は罪無きものに酷い仕打ちをする。

その神のなさることすべてを受け入れなければいけない。それが宗教。

日本人の神の観念とは違う。

映画『マンデラの名もなき看守』で、

看守の息子が事故死する。

看守は今まで自分が囚人にしてきた罪の報いだと思い、深い後悔を憶える。

看守が囚人にしてきたことは罪とはいえない。仕事を全うしたまでだ。

それでも彼は、自分のしてきたことを悔い、自分の人生を投げ出そうとする。

「罪悪感と後悔で、その後の人生を投げてはいけない・・・」囚人のマンデラは言う。

マンデラの息子も事故死している。そこに国家の陰謀があったかどうかはわからない。

でもマンデラは自由を求め立ち進む。

日本人的発想は、マンデラは黒人解放の為に頑張ってるんだなって思う。

ちがう、ちがう。

それが白人の為でもあるんだな。

差別をしている側の救済。

日本人は、東北の大震災を天罰とは思っていない。

でも世界の70%の人間はそう思っている・・・と考えてもいいと思う。