悠久の片隅

日々の記録

<a href="http://ameblo.jp/fujiko-diary/entry-11326865417.html">悲しみのアンソロジー</a>

生きるかなしみ (ちくま文庫)/著者不明

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生きることは哀しい・・・・・

高史明(在日朝鮮人二世)

幼くして母を亡くし、

早朝から炭鉱で働く父は、疲れて帰ってきて食事の支度をすれば、焼酎を一合ニ合飲んで、

多くをしゃべらず、あとは泥のように眠った。

父は朝鮮語。自分と兄は日本語。

先に希望が無く、日本語しか話せない子供らを前に疲れきった父が無口になるのは想像に容易い。

ある晩、珍しくご機嫌の父と世界の国旗の話をする。

自分は、自分が朝鮮人であることは知っていたが、

朝鮮にも国旗があることに驚愕する。「朝鮮の国旗!朝鮮にも国旗があるの!」

今度はその言葉に父が驚愕する。

そして「イイカ、コノ国旗ノコトハ、ゼッタイ、誰ニモ、死ンデモ、言ウンジャナイゾ」

またある晩、ふと目が醒めると、父が天井から首を吊ろうとしているのに気がついた。

兄と2人、父親に縋りつき、日本語で必死に止めようと叫び、

父は朝鮮語で絶望を叫んでいたと・・・推測する。

自分は朝鮮語がわからないのだ。

『この悲しいクロスをどう考えたらいいのだろう』

そのとき、天井が落ちた・・・

『なんという幸運であろう。

そしてまた、現実とは、なんと滑稽で手のこんだ悪戯を仕組むものであろう。これが現実である。』

私は、世の中にこんな悲劇が在ることを考えたこともなかった。

家族の中でことばが孤立する父の哀しみを、誰が察することが出来ようか。

一緒に暮らす実の父と息子が、沈黙でしかわかりあえないなんて悲しすぎる。

母なら違う。女は放っておいてもしゃべる。子供たちも朝鮮語を自然と憶えることが出来たと思う。

でも男は口が重い。

父は死を前にしてもなお、自分の息子の口から発せられる日本語に

いっそうの絶望を感じたに違いない。

多分肉体労働で逞しい、と思われる身体をもった父のこんなにも悲しく弱い一面、

それを見た子供たちの心情。

これは、この家族の問題なのか。

これは、戦争が起こした悲劇で、日本人が犯した罪なのだ。

これが、聖書でいうところの原罪なのか。

行き違いのクロスが十字架のクロスと重なる。

私は日本と朝鮮との間に起こったことは、どこまでが真実でどこまでが虚言か、正直わからない。

でもここに書かれた家族の悲劇、これは大変なことだ。それだけは深く深く感じる。

筆者はこう続ける。

『自分は、朝鮮語を学ぶことは出来る。

でもそれは日本語を通してでしか出来ない。

朝鮮人でありながら、それは矛盾であり、朝鮮人であることを永久に回復することは出来ずに、

日本で、のたれ死にすることになるだろう。これは地獄落ちである。

だが、この地獄落ちをとおして私は、植民地というものがどのようなものであるかを明らかにし、

自分の回帰希望をつかみ直し、燃やしつづけて、

可能な限り普遍的なものに近づいていきたいのである。』

戦争から何十年たとうと、終わらない悲劇はある。

終わったのは『戦争』そのものだけであって、1度在ったことは『無』になんてならない。

いかなるものともリンクをし、未来永劫繋がっていく。どんなことも、どんな人も。

この筆者の息子さんは12歳で自死をする。

この本は、山田太一が選ぶ、かなしみのアンソロジー。15編。

生きている限り、人間はかなしい。

全国民が毎日が楽しくなければいけないような今の風潮は、いったいどんな了見なのか、

それとも、何かのまじないなのか。

楽しさの追求の先に、何があるのか。

何も考えず楽しみを追求をするのは、子供の時だけでいい。

大人は他に追求しなければいけないものがあるように思う。