悠久の片隅

日々の記録

<a href="http://ameblo.jp/fujiko-diary/entry-11337625539.html">ヒュポメネイン</a>

今週になって犬の具合がよくなくて様子をみていたのだけど

昨日から入院。

ついこの間まで、暑い暑いといいながらも、のほほんとした毎日を過ごしていたというのに、

落とし穴なんて、いつどこにあるかわからない。

犬のこととなると、私ダメだ。

病院の狭いケージの中で、

見知らぬ周囲の犬たちの鳴き声に脅えながら、具合の悪い身体を横たえてると思うと、

盲目からの不安も考えれば、

私は吐き気するほどにまいってしまう。

数年前、別の犬が入院したことがあった。

入院から3日目、病院へ行くと

「藤子さん・・・大丈夫ですか・・・」と先生に言われた。

その間、眠れず、食べれず、目の下クマつくって、見るからに衰弱した私を先生は心配した。

「先生・・・ダメです・・・」ポロポロ涙がこぼれる。

死ぬのが嫌なのではなく、閉鎖した中に閉じ込められてる犬を思うと不憫で不憫で。

「とても家に帰れる状態ではないのですが・・・」と先生は前置きした上で、

「一晩だけおうち帰って、また明日朝連れて来てください。」と言ってくれた。

犬は毎日ケージから脱出を試みていたらしく、鼻の頭が削れるほど剥け、手当てされてあった。

予想どおり一晩で悪化し翌朝病院に行った時には「もう治療しても厳しい」と。

それは覚悟の上。覚悟の上で家に連れて帰ったのだから。

不幸な状態で泊め置かれることに、犬も私も限界だった。

先生は、私が家で注射出来る様に、

先生の犬で注射を打つ練習をさせてくれた。

もう治療できることは何もないのをわかっていても、頼めば大雨の中、往診にも来てくれた。

多分先生は、犬というより飼い主の心の支えになるように往診来てくれたんじゃないかな。

連絡がとれなくなる時はわざわざ「今から○時までは携帯不通になります。」

と、電話をくれた。

先生の心遣いがどれだけ心強かったか。

「先生・・・この子は、先生に最期をみてもらいたくて、うちの子になったのかもしれないですね・・・」

私が、死期を早めたかもしれないけど、

命をあきらめるのが早かったかもしれないけど、

私は後悔してない。

犬は犬の力で頑張ったのだから、もうそれ以上望まない。

うちは、犬の頭にリボンもつけないし、服も着せない。

犬は人間じゃない。

犬は犬らしくしがいいと思ってる。

今は、本を読んでも、文字が右から左に流れていくだけで、何も頭に入ってこない。

そして、曽野綾子のパウロの言葉・・・聖書の中のことばだけが心に染み入ってくる。

理想郷、「ユートピア」とはギリシャ語「ウナトポス」からきている。

「ウナポトス」とは「どこにもない場所」との意。

幸福で平和な世界を人を理想とするけど、

現実にそんなものは、どこにもない。

理想と現実とは、そんなにもかけ離れている。

でも、そこに近づきたくて努力をするし、努力したからといって、到達するものでもない。

病気も不幸もすぐ足元に転がっている。

最後には『じっと耐え忍ぶ』しかない。

気付けばうちの犬は15歳になってた。

2歳で失明することがわかった時、ほんの少しの光でも・・・と、そんなささやかな願いも虚しく、

彼女からすべての明かりを奪い去った。

そんなまっくらな闇の毎日でも15歳まで元気に過ごしてきた。

『悪人の上にも善人の上にも太陽を上らせ、また、正しい者の上にも正しくない者の上にも

雨をふらせてくださる』(マタイ5.45)

犬を飼うことは、犬の悲しみも一緒に引き受けること。

犬を飼うことはそういうことだと思う。