フランス革命認識の誤り
- 作者: 河野健二,樋口謹一
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 1989/06
- メディア: 文庫
- 購入: 1人 クリック: 17回
- この商品を含むブログ (3件) を見る
国王ルイ16世への裁判の結果は
死刑賛成361票。
死刑反対360票。
条件づき死刑賛成26票。
結局、条件づき死刑賛成26票を賛成票とし、国王ルイ16世は死刑と決まった。
ルイ16世の裁判の結果、生まれたものが何であったにせよ、
やはりこの裁きは深い永遠の尊敬の的とならねばならない。
この種の事蹟は、そこから生じた結果によってではなく、むしろそれを導いた思想、
献身の精神によって評価される。
かれら、王を裁いた人びとは、この結果、未来においていかに大きな代価を払わねばならぬか、
百も承知していた。
王に打撃を加えることは、結局われとわが身に打撃を加えることになると知っていた。
そして自分を犠牲にしたのである。
世の中が少し落ち着くと、世論は今度は国王を処刑台に送った者たちを言及するようになる。
のちに、国王の死刑に賛成した者が、処刑されることとなる。
人は100%客観的に物事を判断することは出来るのだろうか。
その客観的とは、いったいどこを向いて客観的なのか、なんだかさっぱりわからなくなる。
日本でも、先日死刑が執行された。
私は死刑制度には賛成する。
死刑があることで、犯罪が抑制されているのではないかという前提で今まで生きてきたので、
廃止されることに不安がある。
それならば、私が法務大臣だったら、死刑執行が出来るかといえば、
それは否。
絶対いやだ。
私の意志で人を処刑台に送るなんて、そんなこと出来るわけがない。
日本では、この矛盾がまかり通っている。
『自分がかかわるのは嫌だけど、総体的には賛成』という矛盾。
『携帯は手放せないが、原発には反対』も同じ。
ここを根本から考え直さないと、日本は変わらない。
『我に返ってくる覚悟はないが、賛成』という安易な志向。
体罰問題も同じ。
体罰を与えるなら、
そのあとに必ずそのことと向き合う必要がある。
向き合うのは自分自身であり、
それは相手と胸を開いて話し合うことでもあり、
そんな度量無しに行うことは尊敬にあたいしない。
今、フランス革命という本を読んで
自分の無知にいたたまれない思い。
私のフランス革命の認識を180度変えなければいけない。
どこで私は間違ってしまったのだろう。
フランス革命は、人間性の狂気。
何がここまで狂気にさせたのか。
時勢なのか。人間性なのか。
世の中は良くも悪くも少しづつ変わっていくはずが、
絶対君主から近代民主化は180度強制的にさせた変換で
それで結果としては世の中が良くなったとしても、
その間、無理矢理の流れは人間性のすべてを著わにした。
フランス革命とは、アクセル、ブレーキの効果もわからず、
車を運転し始めてしまったようなもので、
道も整備されてないし、信号の色の意味も個人個人で決めて走ってる状態。
青で進む者もいれば、赤で進む者もいる。
同伴者(市民)は引きずられていくしかない。
人を轢いた人間が次の瞬間には轢かれてる。そうして4万人が処刑された。
それでも皆自由、平等、という青い鳥探して走り回る。
フランス革命は近代化先駆者の悲劇の図しかみえない。
人間のあらゆる課題を提起したのがフランス革命の人間性で、
ここを抜きに社会がどうあるべきかは、語れないのかもしれない。