悠久の片隅

日々の記録

新約聖書を知っていますか

新約聖書を知っていますか (新潮文庫)

新約聖書を知っていますか (新潮文庫)

聖書の入門は数々あるけれど、

現代の目でなるべく客観的に辿るという点で、この本は貴重に思う。

それにしてもイエスの教えの中核はなんだったのか。

ホントだ。

聖書とはどんなものか・・・

それを伝える本はたくさんあっても、

でも結局、聖書の捉えどころの無さは、

『・・・で、なんなの?』がわからないこと。

『聖書とは理屈ではなく、そういうものなのです。』と言われればそうなのかもしれないけど、

理屈で考えてみることもまた別の角度からの光にもなる。

それにしてもイエスの教えの中核はなんだったのか。

新約聖書はかならずしも明解には答えてくれていない。

少なくとも簡単には答えてくれない。

そうであればこそ二千年のキリスト教神学が存在しているわけだろう。

私は福音書を理解するために全文をコピイし、それをつぎの四つのグループに分けてみた。

1、教義を示しているもの。

2、たとえ話を主とするもの。

3、奇蹟を記しているもの。

4、事実の経過を記しているもの。

そのうえで、さらに第一のグループを読み返し、

-あまり本質的でないな-と思える部分を取り除いてみた。

四つの福音書には重複もある。そのときは、意味のより深いもの、意味のより明解なものを残した。

大胆不敵な作業である。

あはははは。

こんな聖書の読み砕き方は、聞いたことない。

でもあのやたらに長い聖書の中核をほじくり出すには、

全身を解剖し細胞を分析した結果を差し出してくれるこの方法が超初心者の私にはわかりやすい。

でも、その作業は相当苦心だったと思う。心から感謝です。

まとめっちゃうと・・・

神はいる。これはイエスにとってまぎれもない事実で。

神がどんなものか、

そんなことは、言葉を尽くしても言葉で解釈出来るものでもないし、

人間に見えるものでないし、敢えて説明したってしょうがない。

この辺の解釈はブッタ?ブッダにも共通してる。

だいたい、神なのだから、敢えて説明をし理解して信じてもらう立場じゃーない。

だから説明はしない。

『ただ、ひたすら神を信じて、信じて、信じて、信じて・・・・・・

そうすれば、もともと人間を愛してやまない神なのですから、神は愛するあなたを救います。』

ということで。

教義の中で神の本質についての話が少ないのは、

『理解なんてしてもらわなくて結構!!!私をまるごと愛して!!!』ってことかな。

これならわかりやすい。

私もこんな愛され方したいもん。

結婚だって相手をすべて理解して結婚するわけでなく、信じて結婚するわけで、それと同じか。

実践的には、

『好きな人にしてもらいたいことは、あなたがまずしてあげないさい。』ってことで、

『人にしてもらいたいと思うことはなんでも、あなたも人にしなさい。(隣人愛)』

要約しちゃえば『信じる者は救われる』に尽きるのだと思う。

旧約聖書が神との規律なら、新約聖書は神への信仰。


だけど、

隣のおっさんが「私を信じないさい。そしたらあなたは救われますよ。」と言ったって、

私は100%信じないし、このおっさん大丈夫か?と、思う。

だから、このおっさんをまず称える人が必要で、

このおっさんがTVで有名な超能力者なら、私は逆に

「ねぇねぇ、うちの隣のおっさんすごいんだよ!アナタもちょっと見に来なさいよ。」と

友だちを呼ぶと思う・・・

イエスを称える人が必要だったんだ。

ここに1つ書いてあるのは、

子供に父親を尊敬させたければ簡単です。母親が父親を尊敬することだとある。

なるほど。

自分で「俺は偉いんだぞー!」ほど尊敬に値しないものはない。

尊敬による支配構造を構築する必要があった・・・・・


福音書というのは、イエスの言行をマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが記したもの。

と、私は捉えていた。

それで間違いではないようだけど、

阿刀田は

『それぞれの著者(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)がイエスをどう捉えたか、

どう伝えねばならないと思ったか、執筆者の主観と立場を反映したものである。』と。

なるほど。

私がこの本を手にとったのは、聖書を知りたいというより、

一番には、阿刀田高という人が、聖書をどう読み、どう捉えたのかが知りたかったからだ。

阿刀田高が好きだから、知りたいし、好きだから信じている。

なのに『聖書』という肩書きがつくと、目くらましにあったようになってしまっていた。


奇蹟についても、以前は

『そんなことあるはずないから聖書は信じられない』と私は思っていた。

今は違う。

それぞれの主観の中に奇蹟があることは、問題ではない。

誰でも自分の中の奇蹟はもってる。

何が奇蹟かは、それぞれの心が決めること、その心の中を覗くことは出来ないので、

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが描いた奇蹟は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが描きたかった奇蹟なのだと、

突然目が見えるようになったという奇蹟は、

神を信じられなかった人が、神を信じ世の中が明るくみえるようになった言い回しかもしれないし、

水がお酒になったのは、イエスの言葉に酔いしれたという意味かもれないし、

たとえ話なのだか奇蹟なのかも現実としてはわからない。

聖書にはたとえ話が多い。

たとえ話というものは、

『彼女は太陽のような人だ』といって、イメージ的にはわかっても

彼女と太陽は本質的にはまったく違うもので、

言葉としての威力はあっても、言葉を操った人のイメージに過ぎない。

なにゆえのたとえ話なのか、どこからの視点なのか、その意図がどこにあるかを探ると

また別の本質がみえてくるのかもしれない。

私の中で今までバラバラだった新約聖書旧約聖書からの流れとして、

この本できれいに繋がったように思います。

出現の仕方、生き方、死に方、生まれ変わり方、

イエスは見事にキリストになった。

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