悠久の片隅

日々の記録

<a href="http://ameblo.jp/fujiko-diary/entry-10677101403.html">罪と罰</a>

罪と罰

読み終わりました。

そこらの小説の6冊分くらいはあるんじゃないかな。

長かったです。

長いことは苦ではないのですけど、

ドスドエフスキーの言わんとするところの何%私が受け取れてるかは怪しいものです。

聖書の引用もあるので、聖書入門を何度か広げてみたり。

文字は追えてる、あらすじも理解してる、セリフにも感動する。

だけど、捉えどころのないものを感じる。

そういう意味で、私にとって決してラクに読める本では無いです。

かなり難しかったですダウン

この本に係わっている間中、私の中の罪そして罰と言うものを考えていました。

罪と言ってもその範疇は広いです。

罪悪感をもてる罪と

まったく痛みを感じない罪。

罪とさえ感じない罪。

罪悪感を伴うか伴わないか、罪の観念は個人個人違う。

「人を殺しておいて、そこになんとも痛みを感じないの?!」

と幾ら責めても、

罪悪感は脳で考えてわかることではなく、心で感じるもの。

この主人公は悪いと思ってない。

悪いと思ってないが、とにかく異常に苦しんでいる。怯えている。

苦しみを受け、苦しみで罪をあがなう

(あがなう=つぐなう)

苦しむことで罪を償う。

うん、私もそれしか救いの道はないと・・・思う。

その苦しみも自分の罪の意識から自然発生的に湧き上がるもので

他人から与えられるそれ(例えば国で定められた罰則)とは別物ではないかと。

国からの罰則は国の秩序を守る為のルールであって、国と国民の約束事で、

絶対受け入れなければならないもの。

それと別に自分の犯した罪を自分自身で受け入れること。

この2つの苦しみから逃れて、救いの道は無いと思ってます。

「だれより自分を上手にだませる人間が、だれより楽しく生きられるわけでしてね ハッハッハッ」

のセリフの人は

ピストル自殺を遂げました。

やっぱり自分を欺いて楽しく生きていけるわけなかった。

でもね、死ぬ前にちゃんと善をなしていくんです。

やれるだけの正義を行ってから逝きました。

それも彼にとっての救いの道だったと思う。

苦しい道が、自分を助けてくれる喜びの道。

私には力が無いからドストエフスキーの心は受け取れなかった。

(そう簡単にオマエなんてわかってたまるかっ!)

というすさまじい勢いで書かれてる感じは伝わってきますけど。

でも考える為の脳は持ってるから、一つ一つの文章の欠片から様々なこと考えた。

私は私なりに、すんごい考えた。自分の罪も自分の罰も。

ずっと考えてた。

それでいいんじゃないかなって思う。

けっこう辛くもなったし、ゴチャゴチャ考えすぎて余計にわからなくなったけど、

それでも何も考えないよりは良かったと思う。