悠久の片隅

日々の記録

<a href="http://ameblo.jp/fujiko-diary/entry-10695001530.html">あ</a>

父の本棚眺めていたらこんな本があった。

20年前の本。

藤子のブログ

仏教、儒教、哲学、歴史に基づきながら人間を考える本。

私が好きそうな内容だけど、父もこんなの読んでたんだ。

付箋がついてたので開いてみる。

エンピツで印もつけてあった。

藤子のブログ

囲んであった文字は

『思いやり』

儒教では『恕』という言葉で現されてます)

いま、私たち日本人にとって何よりも重要なのは、この『恕』の心をとりもどすことではないか、

そこに印がついてた。

父に「思いやり」を持ちなさい。などと言われたことは無い。

言葉に出されたら、とてつもなく薄っぺらいものになりそうだ。

小林秀雄

「説教しようとして出た言葉で説教される者はいない」

ってやつか。

でも、こうしてこの『思いやり』というしごく単純な言葉をしっかり丸で囲ってある姿が

『父』なのだ・・・と。

亡くなった今になって父の姿が見える。

伝えたいものは、言葉じゃなく姿によって自然と心に入ってくる。

20年たってるけどw

大切なものは遠回りしないとなかなか手に入らないものらしい。

父親に本を薦められた記憶は一切ない。本を読むように言われたことはない。

勉強しろと言われたことも無い。勉強は嫌ならする必要は無いらしい。

ただ、

高校、大学は義務教育では無いのだから、勉強のしたくない人間を行かせることない。

学校とは、学ぶところだ。世の中甘い。

そんなことはよく言ってた。

そしてもうひとつ付箋。

愛情のある人間は、他の人びとや、もろもろの事物の前に、立ち止まる。

そして、他の人びとや、もろもろの事物に、時間を与える。

それがとりもなおさず愛なのだ。

現代文明人の生活はあまりにも忙しすぎます。時間が足りません。

忙しい、間に合わない、どうしよう、なにやってるんだと、みんながイライラ・セカセカしています。

それでいながら、愛されたい、愛したいと、だれもが人との愛に飢えています。

でも、それはできない相談ですよ、

愛し、愛されたいなら、まずあなたが立ち止まって、相手にたっぷりと時間をプレゼントしなければね、

と言う主旨。

どれだけ人に愛されてるか・・・・・

そんなもので幸せは量れないと思う。

人の思惑を推し量っても、他人の心はよくわかんないし、変えれるものでも無いし、意味ない。

そうじゃなくて

自分が愛しているかどうか。

自分が周りの人間をどれだけ多く愛せる豊かな人間であるか。

愛する人

守りたい人

大切にしたい人

そんな相手が周りにいること

多少の自己犠牲をも厭わない相手が周りに多くいたら

毎日が忙しくて、毎日が充実して、

自分の事より周りの事で毎日が忙殺されちゃうと思うけど、

それが幸せってヤツなんじゃないかなって

思う。

愛されたいと願うより

自分がまず人を愛せる人間であること。

相手サイドでなく、自分の内側の大きさなんじゃないかな。

相手にもらうんじゃなく与えること。

私も

彼を自由にしてあげたよ。

それで心が解き放された。

今一緒にいたいという気持ち。今という時間を手放したら、

なんだか楽になった。

不思議なもんだなー。