<a href="http://ameblo.jp/fujiko-diary/entry-11218238580.html">櫻の樹の下には</a>
以前は書物に書き込みをするのは嫌だった。
本は宝物。大切にしておきたかった。
今は、
ペタペタ付箋はつける、線も躊躇なく引き、書き込みもする。
大切にしたい対象が、本という物質的なものから言葉の中の精神的なものへと変わっていった。
若い時には、まだ先があった。
先に幾度となく開くであろうものは、毎回まっさらな方が良いと信じ込んで。
この歳までくると、
この先まで考える必要などない。
時間は限られたものだから、大事なものは今この時点でわかりやすくなければ意味がない。
その違いは明確なもんだ(笑)
梶井基次郎を読んでいた。
『櫻の樹の下には死体が埋まってる』というアレ。
美人の死体というのなら儚い桜への発想も出来るけど、そういう意味ではない。
あの桜の美しさを見ると、不安で憂鬱で空虚になってしまうという、畏れのような感情。
(これほど美しいものが、訳も無く存在することなどありえない・・・)的思考でしょうか。
死体は腐乱し、蛆がわき、たまらなく臭い。
櫻はそんなものを抱きかかえ、その液髄を吸う。
それがひとたび櫻の中に入れば、水晶のような液となりあの美しい花びらを作る。
そう考えた時、ようやく櫻の花を直視出来るようになった・・・・・って話。
梶井基次郎ぬお~ん (-"-;A
プラスとマイナスでバランスをとらないと心が落ち着かないのかな。
プラス、プラス、プラスだけでは、いつか破滅してしまいそうな不安を
無理矢理負の妄想で均衡をつけ自らに折り合いをつける。
梶井基次郎をバランスで考えると『檸檬』
これも、バランスの作品だと思う。
適当に本を散りばめて、その上にレモンを載せる。
あの場面は、
その色と形と空気、不調和での調和にドキッとした。
小説が突如絵画(西洋の静物画)になった。
どちらの作品にも共通するのは『不安』
そのまま梶井基次郎の書簡にも少し目を通してみた。
【飢え】というのを読んだ。
・・・(略)・・・
革命後のロシアの飢えのことが書いてあって、悲惨で実に読むに耐えない、
自殺したくなるように悲惨だ。
・・・(略)・・・
僕も小説家としてそんな風に自分がなれなければ本当ではないと思う。
しかし今は自殺してしまいたくなるということで甚だ弱い。
なんという、
遠いところのそれも過ぎ去った昔のモノを読んで自殺したくなってしまうとは。
この感性が『櫻の樹の下には』を書かせたのでしょうか。