悠久の片隅

日々の記録

<a href="http://ameblo.jp/fujiko-diary/entry-11255285305.html">読書力</a>

読書力 (岩波新書)/齋藤 孝

¥756
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この本には賛同。

だけど、

どこか感情の部分で否定したくなるのは何故なんだろう。

否定したくて重箱の隅をつつくように粗を探してみるけど、

理論では異議を唱えられる部分が1つも見つからないからモヤモヤする。

読書力をつければ論破出来るようになるのかな。

書いてあることに異論はないのに反発したくなるのは、どうゆう感情なんだろう。

暗黙知と言う言葉を今回初めて知った。

自分では意識化出来ないが、身体や意識の下でわかっているという『知』のことを言うらしい。

言語化しにくい知識のことだ。

んー例えると・・・

信号かな。

信号は、赤、黄、

そのことになんの疑いも持ってない。

だけど

赤、黄、でも間違ってはいない。

かって

それだけ取り出して考えると全然違う色なのに、

人間は意識以外のとこで、それを認めている。

青葉と言っても

本当に青い葉など無い。葉は緑なのに無条件で青葉と言う言葉を受け入れている。

じゃあ、何故日本では青と緑が曖昧なのか・・・

と聞かれると

言葉で明確に説明出来ない。

虹が7色なのは習ったけど、

昔は5色だったことは知らなくて、国によっても色数が違うことにもビックリだ。

暗黙知とはそういうことかな。

人間は、思い込みで生きてることが多い。

意識にしているほんの一部、氷山の一角を言語に表しているにすぎない。

自分の絶対的価値観など、本を読むといくらでも切り崩されていく。

自分の考えていることを唯一正しいものとして、他を認められないのは

思考がある場所で停止しているという。

例えば、ある1つの宗教にのめりこんでいる状態がそうらしい。

角度の異なる書物を幅広く読んでいれば、

出来る限りの広い目で物事は見なければいけないと常に自分自身に問いかけるようになる。

そして肯定するも否定するも視点を変えながら眺めてみる。

自分と相反する意見でも、前向きに考えてみようする。

だって緑は青で、青は緑なんだもの。

矛盾しあう複雑なものを心の中に共存させること。

思考を停止せず、他者をどんどん受け入れていく柔らかさ。

これが読書で培われる強靭な自己のあり方。

と、この本は言っているし、私もそう感じている。

自分を守る柔軟な武器(思考)が強靭な自己を作る。

思考が凝り固まってるのは、肩凝りと同じことに思う。

自分では気付かない場合がある。

整体でマッサージ中、

「藤子さん、肩凝ってますね」と先生に言われた。

なんの自覚症状も無いから驚いた。

「症状は出なくても、凝っていますよ。痛みが無く気付かないことが、どんどん悪化させて怖いんです。」

偏った宗教にいってしまうのも、自分では凝り固まった思考に気付かないのだと思う。

余談だけど、脳が緊張している時は、身体も緊張しているという。

朝起きて身体が疲れていると感じるのは、眠っているはずが、脳の緊張が取れていないせいで、

身体も休めていないらしい。

整体には腰痛で行っているけど、

神経の緊張を緩める・・・そんなこともやっている。

身体のストレスは一番弱いところに出てしまう。

だから腰痛も腰だけを看ていてもそれで解決するわけでもないらしい。

整体は、行く先々でやることが違って面白い。

なんの話をしているかわからなくなったから本題に戻ろうあせる

私も若い時は好きな本ばかり読んでた。

確かに心地は良いが、思考が一方にしか進んでいかない。

それだと一時の心の糧にはなっても、その先には進まない。

視力は良くなっても、視野が広がらないのはどうかと思う。

今は反対方向にも進める自分がより心地良く感じる。

小さい頃から本に慣れ親しんでおければ、それに越した事は無いが、

それが絶対必要ということでもないらしい。

私も本など好きでは無かったし、子供の頃はほとんど読んでない。

この本によると、

本は書き言葉であるという。

確かに、話し言葉書き言葉は違う。

本に親しみずらいのは、書き言葉であるからだと。

私が子供の頃、母はよくラジオをかけていた。

私はその中で、落語と朗読が楽しみで、その時間になると、母のそばに行ってラジオを聴いていた。

朗読は書き言葉が耳から入ってくる。

私が大きくなってからでも、本にすんなり入っていけたのは、

この朗読による書き言葉に身体が慣れていたというのが理由の1つなのかもしれない。

これもまた意識以外の『暗黙知』ということか。

テレビは自分の外側の情報を得ることが多く、自分の内面と向き合う場面は少ないという。

確かに読書は、自分と向き合う時間が持てる。

私は本を読んでいる時間と共に、本を膝に置いたままボーっと考え込む時間がとても多い。

勿論、どんな本でも・・・と言うわけではない。

少し考えることを必要とする本。想像力を必要とする本。自分の能力より少し背伸びした本。

斉藤孝は、その境(娯楽本と歯ごたえのある本)が、司馬遼太郎あたりと言う。

なるほど(笑)

司馬遼太郎は、受け取り手の読み方によってどっちにもなるようにも思う。

それと、私にとって一番欠けているのは

『新書を読むこと』だと気付かされた。

新書は自分にとって必要な時にしか読んでいない。

この本も新書だけどw

ただ、本屋さんに行くと、新書の棚も一通りは見る。どんな本があるのかとワクワクする。

新書を4年で50冊読むことを目標にした方が良いとこの本で言っている。

と・・・・・

結局この本にかなり感化されちゃってます。

読書力とは潜在的な国力だと、そこまでこの本は言ってます。

うん・・・そうだと思うんだけどね。

ハァ~ それでもなー 

と、感情の部分でいつまでも往生際が悪い私です。