悠久の片隅

日々の記録

<a href="http://ameblo.jp/fujiko-diary/entry-11306419412.html">火の鳥 </a>

火の鳥 (2) (角川文庫)/手塚 治虫

¥580
Amazon.co.jp

漫画は多分、軽く読んでケラケラ笑えるものがいい。

でも、

人間それだけじゃ生きていけない。

どうしてもそういう時がある・・・

きっと手塚治虫自身もわたしたちにとっても。

だから手塚は笑いだけでない哲学的なマンガも描いていたんだと思う。

火の鳥の1巻は、3世紀の倭(日本)から始まる。

そして2巻は、西暦3400年。荒廃した地球上には住めず、僅かの人間が地下に住むばかり。

やがてすべては死に絶え、それから30億年の時を経て、また生命が現れ、第1巻に繋がる・・・

その1巻と2巻の間のエピソードが3巻からになり、過去と未来を行き来しつつ最終章に向かうのだけど、

手塚治虫はすべてを書き終えず亡くなってしまった。未完の大作。

でも、

このあとの落としどころ(最終章)など、

なかったように思う。

時は永遠に続くのだから

どこまでいってもそこに宇宙生命はあって

現在は常に歩いていってしまい、

結末などない。

未完・・・

それがこの物語には合っているように思う。

人はすべてに結末をつけないと気がすまない。

いつもどこかに安定や答えや結果を見出そうとしている。

でも

答えのないものなんていくらでもある。

人は気がついているのだろうか。

源氏物語の冒頭はイジメから始まっていることを。

周りの女たちの嫉妬に、桐壺は次第に心を病み身体を病み亡くなってしまう。

帝は悲しみ、死んだ桐壺の官位を一階(ひときざみ)上げてあげるのですが、

そんなことが、いったい何になるのでしょうね。

この一階(ひときざみ)という言い方、情緒があって美しい。

そして、「なくてぞ人は」ということばが添えられてます。

それは出典不明の和歌で

「ある時は 有りのすさびに憎かりき なくてぞ人は恋しかりける」

訳・・・ある時にはあるものと安心した気まぐれに、憎くなってしまうことがありますが、

亡くなったときになれば、人はそれを恋しく思うものです

人は、亡くなって初めて悔やむもの。

千年も前の世から、イジメに答えは出てない。

答えがないことは、人は許せないから、やっきになって的を作る。

でも

それは問うてることの答えではない。

せめて自分は悔やまないようにと思っても

人に過ちはつきもので、

過去の過ちも必ず繰り返されるもので、

ただ同じ人間が同じ過ちを2度繰り返していけない。

それくらいしか出来ないのではないかと。せめてそれだけはと、それが自分自身への思い。

そして、火の鳥もそんな繰り返される過ちの物語。

2巻は、

西暦3400年、僅かに残った人間たちは、よい世の中を願い、完璧なコンピューター頭脳に頼る。

だが、それも結局は核戦争に至り人類は滅亡する。

不老不死を授かり生き残ったマサトは、次の人間が現れるまで、

地球を見守り一人生き続けなければならない。

たった一人で、永遠を過ごす。

そんなある日、

ようやく生命体が現れ、恐竜まで進化したところで、何故かナメクジが台頭し、

すべての生き物を征服、立って歩き出してしまった。

ナメクジは自分たちが世の中で一番偉いと信じ切って

バビルの塔をたて、車に乗り、飛行機を作り、自然までも操るようになる。

そして最後には「自分は下等な動物とは違う。死にたくない・・・」と言いながらすべて死に絶える。

この辺、手塚治虫圧巻。

私たち人間は、進化の過程でたまたま人間へとなったに過ぎない。

思わぬ地殻変動細胞分裂で、どのような生命体になるか未定で、

人間が偉いなんて、ナメクジが偉いと言ってるのとなんら変わりがない。

自分が生きるため、地球上のあらゆるものを殺しておいて、そのどこが偉いんだ・・・

マサトは、また次の生命が現れるのを待つ他ない。

そして遂に、人間の誕生となるのだけど

その間、30億年という月日が流れた・・・・・

マサトは、自分の肉体がなくなっていることさえ気がつかなかった。

肉体が滅びる時、私たちの細胞は、空気や土に溶け込んでいく。

それは宇宙生命となる。

その媒体として『火の鳥』を時間空間を超え飛び回っている。

手塚治虫は、私が生まれる以前からもうこんな漫画を描いてた。

どこまで描いても終わりのない輪廻の物語。

手塚治虫の死=結末

以外にありえなかったように思う。

火の鳥2巻は、物語の1巻でもあるし、ラストでもあるし、

火の鳥すべてが2巻に集約されていて、そのディテールとして、他の巻があるように思う。