悠久の片隅

日々の記録

<a href="http://ameblo.jp/fujiko-diary/entry-11305632231.html">毒りんご</a>

これは、私の勝手な偏見。

私は『自分磨き』とは

『自分磨き』という趣味にしか思えない。

『磨く』ということばの響きで美化されてしまっているけど、

ただ、(知的あるいは美的)欲求を満たしているだけのこと。

欲と戯れるだけのことだ。

やってること自体はとても素晴らしい。

優雅なレストランで至福の時を過ごすのも、

海外で見聞を広めるのも、

肉体の鍛錬に勤しむことも、

美術館で魂の叫びを感じとることも、

難しい勉強に立ち向かう姿勢も、

潤いであり、心の安らぎであり、知的時間を過ごしていると思う。

でもそれらを『自分磨き』という表現1つに摩り替えることは、言葉の貧相化。

一つの言葉で言いまとめるのは『らく=便利』ではあるが言葉の手抜き。人間の幼稚化。

それが今の日本。

複雑なものや厄介なことは面倒だから、楽な方へ楽な方へ無自覚に運んでいってしまう。

ことばや思考の手抜きは、推し進めていくと2者択一しかなくなる。

もっといってしまえば、1つしかなくなってしまう。創造主のみ。

私が本を読んで、ジョギングをして、それを「自分磨き」してます。ってこと?

石ころがダイヤモンドに変わってきてますってこと?

そんな自己陶酔、恥ずかしくて言えやしない。

「鏡よ鏡よ鏡さん。この世で一番美しいのは・・・」などと言って、その先にあるものが不幸なことは

七人の小人だって知っている

とは、寺山修司の言葉。

寺山修司は、言うことがいちいち、カッコイイ。

こうゆう時代の人たちが次々亡くなっていき、私は心細く思う。

美しさを追い求める過程で、

少しだけ立ち止まって疑問をもつことの『純粋さ』こそ忘れてないだろうか。

今の人たちは素直すぎる。

市場からのアピールを即座に受け入れる。

その寛容さはすごいが、立ち止まってそこに疑問をもつ余裕はないらしい。

耳障りの良さで意味も考えず、簡単に流行に染まることで『自分の誇り』を失っている。

自分に対する誇りがないから流される。

流行が悪いわけじゃない。よいものなんていくらでもある。

ただ『自分磨き』ということばを口にする恥ずかしさは、昔の感覚は知っている。