悠久の片隅

日々の記録

<a href="http://ameblo.jp/fujiko-diary/entry-11313719163.html">目的</a>

「本屋さんに行きたい」の衝動を私は抑えることが出来ない。

積読状態の本の山に手を延ばしてみても

(そうじゃない、そうじゃない、)

本が読みたいんじゃなくて、本屋さんに行きたいのです。

本棚から1冊を手にとる、その気持ちの昂ぶりと、インクの匂い、

私にとって、これはもう官能の世界、生理的欲求で、

本屋さんフェチと言ってもいいと思う。

文庫本5冊を買って、そのままスタバに入る。

いつものとおり、スタバラテ、ホットを注文して奥の席に向かう。

夏でも冬でも私のホット好きは変わらない。

冷たいコーヒーは味が勝ちすぎて、美味しいと思えたことがないのです。

で、どっちを読もうか迷う。

寺田寅彦吉本隆明

寺田寅彦の最初の一行

『日常生活の世界と詩歌の世界の境界は、ただ一枚のガラス板で仕切られている。』

ウギャー

もうこの一行だけで、私はどこかの世界に飛んでいってしまいそうになる。

寺田は物理学者。

そのことを思うと、一枚のガラス板とは、きっとプレパラートなんだろうなーなどと、

顕微鏡の中の神秘ささえ勝手に想像してしまう。

物理学者がなんでこんなに詩情あふれているのでしょう。

好きで好きでたまらない。

『このガラスは、初めから曇っていることもある。

生活の世界にちりよごれて曇っていることもある。

二つの世界の間の通路としては、通例、ただ小さい狭い穴が一つ明いているだけである。』

私の触覚はひしゃげてないかな。

この本を嬉しく読めているうちはまだ大丈夫なのだろうか。

ともかく、1頁読んでは本から顔を上げ、

あれこれ考えてしまうので、なかなか頁は進まない。

私は目が悪い。両眼とも0.1も無い。

で、老眼なので本を読むのにはちょうど良いが、そのまま顔を上げても周りが何も見えない。

文字から目を離すと、周りの景色はぽわわんと翳み、

わずらわしいものが何ひとつ入ってこない。視界が思考の邪魔をすることがない。

そうして私は自分が思考停止の状態だったことに気付く。

店内の音楽も、誰かが会話をしている声も、お店の人の声も、一切耳に入ってなかった。

なんでこんなところで無になれるのかと思うのだけど、

私はこういうところで、何故か本を片手にいつの間にか目を開いたまま無になっているのです。

最初は目にした文章を頭で反芻していたりするのだけど、いつの間にかすべて空っぽ。

深い集中のあとの、開放なのでしょうか。

瞑想なんてものは、しようとして出来るもんじゃーない。

無になろうとしてなれた試しがない。

でもスタバで、好きな本を読んでると私はよく無になってしまう。

電子書籍の時代になろうと、

私にとってはこういうひと時が何より大切だから本屋さんに行くし、スタバにも寄る。

目的は本かもしれないけど、それを手にする過程もそれ以上に大切。

無駄が省けて便利でよいかもしれないけど、それと同時に失うものが必ずある。

それはハッキリ形に表せるものではないけど、

インクの匂いだったり、無の時間だったり、その行き帰りに気付く小さな花だったり。

目的だけが目的だとしたら、余りに人生味気ない。

言葉にすると変だけど、多分言葉の方がおかしくて私が変なわけではないと思う(笑)

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