悠久の片隅

日々の記録

<a href="http://ameblo.jp/fujiko-diary/entry-11314835583.html">真実を見る目</a>

柿の種 (岩波文庫)/寺田 寅彦

¥735
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物理学者らしい洞察力と人一倍繊細な感受性。

ジっと見て、感じる。

寺田寅彦には、科学も詩も同じ。

この本は、本人が日記の断片と言ってるように、

日常の些細な出来事からの気付きを軽い調子で書いている。

大正から昭和初期に書かれたものではあるけど、今の時代に読んでもまったく違和感がない。

芭蕉は、相変わらずニコニコしながら、一片の角砂糖をコーヒーの中に落として、じっと見つめている。

小さな泡がまん中へかたまって四方へ開いて消える。

それが消えると同時に、芭蕉も、歌麿も消えてしまって、自分はただ一人、

食堂のすみに取り残された自分を見いだす。』

寺田がひとり食堂で食事をとっていた時に浮かんだ情景を書かれたものの一部抜粋。

芭蕉と角砂糖とコーヒーの中の宇宙・・・このごく自然なマッチングに私は驚いた。

その情景がすんなり受け入れられる。

一片の角砂糖の響きも好きで、芭蕉がコーヒーの中に見るごく自然なわび、さびも

確証をもって感じられる。

出来るなら、私はその角砂糖になって芭蕉の見つめる中溶けて消えてゆきたい。

この世からそんな消え方が出来たらどんなに美しいかと。

そう思う裏返しには、人間は情けない肉体を残して死んでいかなければならない必然があるのだと、

なんだか、せっかくの夢想を自分で壊してしまった。

私は本を読んでいるより、ひとり空想の世界に浸っている時のが長いように思う。

とりとめのない空想からまた本に戻る。

食堂に芭蕉歌麿を座らせてしまうなんて、寺田もまた芭蕉なのだと、

そして寺田がひとり自分の孤独へと返るところに、寂(さび)を見る。

こういう真実の目にさらされると、今の社会の歪みがなんとなく見えてくる。

社会全体が歪んでしまっているので、時にはそこに飲み込まれている自分もあって、

自分の中の麻痺している部分が、寺田の言葉によって程よく刺激され、感覚が甦ってくる、

精神の針治療みたいなものだと思う。

感覚は放っておくと衰える。筋肉の衰えと変わらない。

『天災は忘れた頃にやってくる』というのは、この寺田の言葉。

文明の進化と共に損害も大きくなる傾向になると言い、

自然科学を教科書に取り入れることの大切を唱えている。

寺田は昭和10年に亡くなって、

今の学校教育では自然科学をどのように扱っているかは知らないけど、

自然科学を学ぶことは自分自身の身を守る術であって、(他の実用性のない知識より)必要なのだと、

そういう警鐘は、(文部省は)聞き漏らしてはいけない。