悠久の片隅

日々の記録

<a href="http://ameblo.jp/fujiko-diary/entry-11342847327.html">誇り</a>

落ち込んでいるとき、もう1つ私を慰めてくれたものが、

24時間テレビ

若い人の夢や希望って、いいな。

キラキラ輝やいてる。尊いなー。

長時間みてると、多分情がうつるんだと思う、泣いてばっかりだ。

主人はこういうものは、好まないので、みるとしてもゴールのところくらい。

今年は留守なので、私1日中みてた。

日本では、こういうのは、誰かに何かを訴えるとかじゃなく、

1年に1度、楽しみたい人が楽しむ、そういうスタンスが合っているんじゃないかな。

欧米では、ボランティアやチャリティーは、宗教から根ざしている。

『隣人を愛せよ』

宗教が背景にあるのと無いのとでは、同じことしても同じようにはいかない。

クリスマスの中身が違うみたいなもんかな。

1年に1回、みんなで何かをする・・・

世界にはカレンダーが無い人たちだっていくらだっている。

1年1回が無い。

そんな事に思い馳せたり。

私は24時間テレビで涙しても、何もやってない。

主人は24時間テレビは好まないけど、海外の学校に寄付は続けている。

私の涙が偽善といわれたらそうかもしれないし、

主人の寄付が偽善といわれたらそうかもしれない。

偽善と善の定義はどうでもいいし、そこを考えても何も変わらないし、

事実しかないんじゃないかと。

海外だと、

障害者と健常者の区別ってほとんど無いように思う。

変な言い方かもしれないけど、

どこもかしこも、障害者がいっぱいで、特別なことではない。

以前、何かでみたけど、

自国での障害者の割合を

日本は10%以下と感じてる人が一番多く、

アメリカは30%以上と感じている人が一番多い。

実際の障害者の割合は知らないし、ここまでの差はないだろうけど、実感として近いものある。

ボランティアも、

行政が手が回らないから、当たり前のように住民=ボランティア、

地域住民がなんらかに携わり、そして誇りをもってやっている。

『誇り』

そこが一番違うんじゃないかな。