悠久の片隅

日々の記録

<a href="http://ameblo.jp/fujiko-diary/entry-11358332653.html">言語の限界</a>

コーランを知っていますか (新潮文庫)/阿刀田 高

¥620
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この本面白い。

あっ・・・

コーランが面白いわけではない(@_@)あせる

でも様々な気付きがある。

昔はコーランは翻訳さえ許されなかったというのだから、

イスラム教が日本社会に馴染みにくいのもわかる。

アラビア語はあまりにも、日常からかけ離れてる。

何故翻訳がいけないかというと、コーランは神の言葉であると共に神の音楽だという。

なるほど・・・

厳粛さは、言葉の意味だけではないということだ。

私は枕草子が好きで

春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

夏は夜。 月の頃はさらなり・・・・・

意味以前に、言葉の音、リズム、優しさがいい。

これを英訳して意味は伝えられても、肝心なこの耳障り、心地良さは日本語でしかわからない。

コーランアラビア語への強いこだわりで、

好きなものには、誰だってこだわりたいのです。

聖書が日本人に理解しにくいのも、翻訳という意味で、そういう難しさをもってる。

「自分の隣人を愛せよ。」

これを最初にギリシャ語から「愛」と訳してしまったことで、

聖書が日本人のもつ愛のイメージと微妙にズレてしまった。

これは、自分の隣人に親切にしなさい。

の意味で

そういう思いをすべて『愛』という言葉ひとつにひっくるめて訳したことに、そもそものややこしさが生じた。

言葉というのは、圧倒的に足りない。

単語は『愛』しかないけど、実際の愛には様々な面がある。

だから言葉に捉われて考えると物事わからなくなる。

なんのことはない、単に言葉が存在しないだけなのだけど。

本当は子供に対する愛、恋人に対する愛、神に対する愛、

これらは性格の違うもので、違う単語の方が処理がいい気がする。

言葉に限界がある以上、翻訳にはにもっと限界がある。

伝える方に限界がある以上、コチラの受け取り手のキャパにかかってくるのかと、

本だけでなく、人との会話にしても、自分サイドの問題を改めて感じる。

一神教というのは、神への絶対的な愛だと私は感じている。

人は誰でも愛する(人)のことを、アカの他人にとやかく言われたくない。

そういう意味でこの阿刀田の「コーランを知ってますか」の本は、

非常に、立ち入りにくいところに立ち入ったもので、

それを信者としての崇拝の目でなく、

ごくごく私と同じ目線で書ききってくれたことに感謝です。

あばたは、あばたとして、

えくぼは、えくぼとして、

そのまま受けることに、意味があると思う。