静かなる細き声
山本七平がなにで出来ているかを知りたくて読んだ本。
内容は難しくてわからないけど、
モノを考えるというのは、
10年・・・20年・・・30年・・・わかるまで考えなければならない。
- 作者: 山本七平
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 1992/11
- メディア: 単行本
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戦争中に聖書学の本を読んでいれば、みな、少々頭がおかしいと思われるのが普通だったからである。
それはいつしか私に、黙って、自分に関心のあることだけに関心を持つという習性をつけてくれた。
世の中のことはどうでもよい。
世間にどんな思想が流行していようと、それは関係が無い。
私が関心を持っていることに、世の中もともに関心をもってほしいとも思わない。
まして、私がやっていることを認めてくれとか、評価してくれとかいった気持ちはまったくなかった。
(中略)
すべては、用いられる時が来れば用いられるのであろう。
人は黙ってその準備をしていればよいのであろう
マジョリティーは、エネルギーを外に向けて発信するが
マイノリティーは、エネルギーを外に向けると自分より大きな波に翻弄されそうになる。
なので自己に向けてエネルギーを発信し、それが何十年かの時を経て満ち満ちて、
マジョリティーの足元を揺るがすほどのものに完成を遂げた。
それが山本七平の軌跡のように感じた。
まるで犯人の足取りを追うように、日本、中国、と文献をしらみつぶしにあたり、
消去法で丹念に1つ1つ消していくような。
それは自分が生まれながらのクリスチャンで、日本では1%の少数派で、
何故周りの人間が、その考えを受け入れられるのか、その思想は何に基づいているのか、
ただその1つの真実が知りたくて、ひたすら孤独に歩き続けていたようにみえる。
1%の自分というものが99%に飲み込まれないように、苦しい闘いであったと思う。
そして私たち日本人が何と対決しなければいけないか、示している。
その人がどのような思想に行きようとその人の自由である。
ただ、そのときは自分がいかなる思想に生きているのかをはっきり自覚しなければならない。
自覚していれば思想的転換も回心もあり得るのであろう。
しかし無自覚に呪縛されていては動物同様にそれは不可能であり、
動物社会学を援用すれば最もよく解明できる社会になってしまうであろう。
お正月には神社に詣で(神道)
日曜日は休日とし(キリスト教)
死ねばお坊さんに拝んでもらい(仏教)
クリスマスはプレゼントをもらい(キリスト教)
年越しに除夜の鐘を聞く(仏教)
そして困った時には、神様仏様・・・・・
多分そこに問題は無い。
自分の心が拠るべきもの、規範となるものがどこにあるのか、それが自分自身わかっていない。
そこが日本人共通の問題。
原発に関しても解決されてないまま再稼動。
結局は、
日本人が何故そうであるのかの追求が足りていないということなのだと思う。
理屈でいけば、問題点がわかれば、自ずと解決策が出てくる。
出来ない人種なら出来ない人種で、何故すべて矛盾したままやり過ごせるのか、
その人間性たるものが、何に基づき、どのように浸透してしまったのか、
個々の社会問題として考えるより、日本人の成り立ちで見なければ、いつまでも矛盾を抱えたままなのではないか。
多分、そうやって考えていくと、どうにもならなくなっていくように思う。
例えば、
日本語には敬語があって、
ある人には敬語を使い、ある人には敬語を使わないとするならば、
それは平等の精神から考えれば、差別ということになるのではないか。
何故、身分で人を敬わねばならないのか。そこを納得させるものは何か。
敬語により身分の上下を感じさせることは、自己主張の弊害にはなってないのか。
それが儒教の教えなら、儒教とはどんなもので、何故中国で成り立ったものを日本が受け継いでいるのか。
他文化を受け継ぐことの意味はなんなのか。そこにどのようなポリシーが存在しているのか。
もし親に「敬語っていらなくない?」と聞いたら、多分「それは屁理屈というものだ」と一喝されて終わる。
日本の摩訶不思議さを口にしてはいけない空気は、気のせいだろうか。
私は敬語はなくてはならないものだと思っている。
ただ、きちんと使えてるかと言えば、適当・・・・・
万民が大切と思いながら、本気で大切にはしてない。
言葉と行動と心と、すべてが曖昧で矛盾。
結局、敬語だけでなく、
長い歴史に於いて、そうゆう1つ1つが曖昧なまま矛盾を疑問ともせず、自分が何を基に正しいと思っているかの根本が
何も説明出来ないから、どの問題にしても説明が出来ない。
世界から見た日本人の自信の無さは、自分が何を信じているのかが無いからではないかな。
こんなこと言うのは多分本当に屁理屈でしかないのだけど。
ただ、ものを考える、という意味が少しわかったような気がします。
日本人とユダヤ人の著書の中にもあるが、
日本人が聖書で一番ひっかかる所は、マリア様の処女受胎だそうだ。
私もそう。他はなんとしてもそこだけは信じられない。
でも、
ユーラシア大陸では処女受胎が何千人だかいるらしい。
ほぇ・・・・・
処女受胎を認めないのは日本人とユダヤ人だけらしい。
ひょぇ・・・・・
私は大抵のことは信じるようにしているけど、これだけは絶対ダメだ。
何故、私が信じられないかといえば、
それを認めたら、世の中何でもありということになってしまう。
だから誰がなんといおうと、そこだけは引けない。
それを考えると、
私は自分の考えていること、知識と智恵が絶対なのだ。
日本人は自分絶対主義ということになる。
自分絶対主義ということは、
自分の知識と智恵が一番の拠り所だから、
ある日『天皇は現人神です』と教えられたら、
日本人全員が、天皇は神と信じ特攻してしまうこともありえるわけだ。
自分絶対主義は、元々の核がないのだから、どういう思考もありえる。
だから、
サウジアラビア人から見たら日本人はテロリストに思えるのか。
そして自分絶対主義には学ぶ1本の経典が無いから、憲法がとても大事で
憲法改正は、しないんじゃなくて、冒してはならない領域にもなってしまっているのかもしれない。
たった数十年しか生きてない自分を絶対とすることは、なんて危うく脆いものなのかと思う。