悠久の片隅

日々の記録

古事記

日本の歴史教育には宗教と神話が抜けている。

だから世の中のことがわからなくなっている。(井沢元彦

古事記 いのちと勇気の湧く神話 (中公新書ラクレ)

古事記 いのちと勇気の湧く神話 (中公新書ラクレ)

万葉集にも、

「あきづ島 大和の国は 神からと 言挙げせぬ国」なんて語句もあって、

「日本は神意を大事にし、自分の意志は言い立てないのが良し」と、基本、されていた。

日本人は自己主張が弱いと言われますが、千三百年もの昔から

「自己主張するとろくなことはない。神意に従うのが一番」、

むしろ、「はっきりした意思表示は危険」という観念があったのですから、これは日本の伝統なんです

伝統?

これは宗教でしょ。

「日本人は自分を無宗教に思っているが、実は本人も気付かず宗教をもっている」と、

山本七平の言葉にもあったけど、それがまさしくこのことに思う。


自己主張が弱ければ自分にとって不利だとわかっていても、自己主張を強く出来ない。

そんな日本人が多いと思う。

哲学は理屈で説明がつくが、宗教は理屈ではない。

何千年の歴史に導かれた宗教に背くことは、そうやすやす出来ることではない。


例えば、井沢元彦の言う1つに、「箸(はし)」の話がある。

日本では、家族の箸は皆個人のもので、家族で共有はしない。

外国ではフォークやナイフは家族共有のもの。分けていない。

何故日本では個有かといえば『穢れ』という観念があるらしい。

消毒すれば問題は無いはずなのに、そういう理屈ではなしに心が嫌がる。

そういうものが宗教だという。


いくら神がいると言われても、信じることが出来ない。

同じように、

箸に汚れはない、家族一緒で構わないでしょ。

もっと自己主張したらいい。

と言われても日本人にとっては、

自分の中で何か大きな変換が起きない限り超えられない壁なのだと思う。


私個人は日本人の中では、自己主張する方だと思う。

それは『自分はこのままではいけない』という180度の改革をしたから。

人間、ちょこっと変えるのは難しいが、180度は出来るそうだ。(例えば禁煙)

ただ、180度変えられるというのは、また180度戻ってしまうという可能性が往々にしてある。

それも考慮にいれて、

ただ、そのうちに・・・いつか・・・それが本物の180度の転換になる時がきたりする。

と、ユング心理学の河合先生の言葉にあった。

私は禁煙に何度も失敗して、その度にどんどん本数が増えていき(リバウンド)、

でも、現在はきっぱり禁煙出来ている。2度と吸わない自信がある。

本数を減らすというちょこっと変換が、人間にとっては一番難しいようです。


話がそれた(笑)

自己主張が出来ないことで、学校でも会社でも悩む人は多いと思う。

でもそれは個々の個人性の問題でもなく、神を信じることくらい難しいことなのだということになる。

心が考えるよりずっとずっと難しく、理屈ではどうにもならないものを含んでいるということです。

日本人は独自の宗教をもっている。

ただ本人が気付いていないし、空気のように取り込んでいる。

そのことがすごいと、山本七平は書いていた。

宗教という言葉は明治以降に出来たもので言葉自体に馴染まない、というのもあるようです。


えーと・・・話をこの本(古事記)に戻すと、

諸(もろもろ)の神が、イザナギイザナミに日本国を造らせた。とある。


この本の著者大塚ひかりが言うには、

国造りという大事業でさえ最高責任者が無く、諸(もろもろ)と言ってしまうところが、

責任の所在をはっきりさせない日本の体質ここにあり!ということになるらしい。


これもイコール自己主張しないことのように思います。

日本では、黙っていることが美徳で、

それが功績の場合は美談となり、失策の場合は無責任ということになるのかと。

って、これってよく考えると、丸投げですね(笑)日本らしい。

責任は、イザナギイザナミで、諸(もろもろ)の大臣神、官僚神は、出てこない。

諸(もろもろ)の神が作ったように今現在の日本があるということは、

相当な信仰心とも言えるわけで(笑)

経典も武力も無しに神の縛りがここまで効いているって、しかも本人自覚なしって、

イスラム恐るべし!」などと言えない。


それと、古事記には、我が子を捨てる神がところどころでいます。

親が子を愛しむのは当然のことです。

それでも、

それがどうしても出来ない人もいるということです。

すべての人が我が子を愛せない現実も受け入れ、認めてあげなければならないのです。

古事記では文字通り、

捨てる神あれば、拾う神あり。の世界です。

現代でも、拾う神の体勢が整っているか、そこが重要なのです。

我が子を愛せる犬もいれば、愛せない犬だっている。

古代からなんの不思議もないことで、

日本の大きな問題は、自分の感覚のみを真実とし、ほんの一握りのマイノリティーを否定しまうことです。

マイノリティーが生きにくい社会を作っているのは誰か・・・


古事記は、なかなか面白くて(まだ上巻のみですけど)

イザナミの嘔吐物から生まれた神、尿から生まれた神、屎(くそ)から生まれた神もいます。

尿という字では気付かなかったのですが

屎(くそ)←変換出来ているでしょうか?

漢字で、尿は水で、屎(くそ)は米と、体から出たものが、わかりやすく表されてます。

口に入れた水や米がいずれ尿や屎(くそ)になり、またそこから新たな生命力が生まれる。

植物を食べ、排泄したものが肥料となり、またそこから植物が生まれる。

何一つ無駄なものはない、自然の循環です。この一連の流れの美しいこと。

今は屎(くそ)と言うと下品なのでしょうが、

そんな風に汚いものを除けているから本質がわからなくなってしまう。

またそれが『穢れ』『言霊』といった信仰心からなのだと思いますが。

子供がうんこの話が好きなのは、大人が忌み嫌いダメというから逆に面白いのでしょうね。

自然にしておけば、古事記のように自然だったのに(笑)


神話と歴史の違いは、年代や地名がわかるかどうか、証拠があるかどうか。

例えば古事記に出てくる天皇は120歳だったり、130歳だったり、昔はみんな長生きね~♪

って・・・

そんなわけない!

「だから神話なんてまるっきり信じられないのよ」

ではなくて、

じゃーなんで、そんなふうに記述をしたか、そこにどんな思いが隠されているのか、

そこを紐解いていくと、当時の人の考え方が見えてくる。

と、井沢元彦は言い、

私は、そんなとこに古代のロマンを感じます。


古事記は素朴で、土の手触りがします。

屎(くそ)も、ほと(女性性器)もよく出てきます。

時に残酷、時に優しく。

古事記は、捨てる神だけの世界でもなく、拾う神だけの世界でもないことを物語ってくれています。

決定版 古事記と古代天皇

決定版 古事記と古代天皇

コンビニで購入のコチラも併せて読んでます。