悠久の片隅

日々の記録

対談中国を考える 司馬遼太郎/陳舜臣

対談 中国を考える (文春文庫 (105‐51))

対談 中国を考える (文春文庫 (105‐51))

中国もしくは中国人とはなにか、ということは、ニ十一世紀に近づくにつれ、

人類の切実な課題になってくるにちがいない。

しかしこの設問ほど困難なものはなく、それに関する無数の具体的事例をそのあたりの浜辺いっぱいに積みあげても、

事例そのものの形態、色彩、あるいは本質が複数に相互に矛盾しあっているために、

一個の概念化を遂げることは至難といっていい。

事例の山からわずかな数個の事例をひっぱり出して小さな概念をひきだしても、

他の事例群でひき出された概念と矛盾してしまい、結局、中国は謎であるという一種の定説のとおりにわけがわからなくなってしまう。

しかし徒労であっても、やらざるをえない。(司馬遼太郎

今、中国に関する本は、どんどん出ていると思うし、どんどん売れていると思う。

でも『今だから』でなく、ずっと中国と日本を見て、ずっと考えていた人たちがいる。

この本は30年前の司馬遼太郎陳舜臣の対談。

この2人が友人というのもあって、ざっくばらんに大阪弁で話している。

方言の方が感情がわかりやすくていい。

この人たちのすごいとこは、中国を見る時、日本というより

中国の周辺国(モンゴル、ベトナム)からの視点で見てる。

中国は古代から自分たちを『中心の国』と思っているのだから、

対日本だけで見てたら片手落ちどころか、何も見えてこないのかもしれない。

司馬:つまり、天文・天正カトリックを何故日本は無にしたかということはくりかえし残念ですね。

そのままでいても三割ぐらいがカトリックでおるとしたら、太平洋戦争を起こさなかったかもしれんな。

情報がオープンに入ってくる。それから世界人みたいな意識がある。

やっぱり普遍とは何ごとかということは、体でわかるでしょう。

僕ら普遍とは学校に行ってみんな習うけど、普遍という言語を学んでいるだけで、

普遍ということは日本でうまれるとわかりにくいですね。

普遍を知らないと、中国もわからないわね。

中国は国家というより多分に普遍的世界なんやね。

少数民族をいっぱい抱えているからという問題もあるけどね。

普遍的世界って何かっていったら、寝て働いて食うことでしょう。

昔、中国では「チーファンラマ?」つまりメシ食ったか?っていうのが挨拶だ、とよく聞きましたけど、

メシというのは大事だということになっていて・・・・・

陳:オレはこんなに食ってるぞ、いうデモンストレーションだと言って・・・・・。

司馬:そうなのか、それともメシが生活意識の中心になっているのか知らないけれど、

メシが中心になってたら、ナショナリズムは起こらない。

ナショナリズムってのは飢えなんだから・・・・・

国家の要請なんだからオレは貧乏して欠乏に耐えている、それがナショナリズムなんだから。

蒋介石が日本に留学していたとき、日本のこれに驚いたらしいけど、

中国にもナショナリズムを植えなきゃならないって感動したらしいけど、

考えてみるといまの中国はメシを食うことから始めようというところがあるね。

やっぱりメシの方が普遍性があるね。

人間は寝て食うことやないぞという、日本式の「武士は食わねど高楊枝」になるとこが、

悪しきナショナリズムの出発になるのかも知れませんね。

食事に2,3時間かける国は、

『食べることが人間にとって一番大切』と思っているから、時間をかけ楽しんでいる。

この前、ベトナムのTVをみていたら、

「一番の楽しみはなんですか?」という問いかけに

「こうして、みんなでお茶を飲みながらのんびり話をすることです。」と

家の前のパラソルの下で、はにかみながら皆がそう答えていた。

日本人もシャイだけど、ベトナム人はもっとシャイね。

狭くてエアコンが無い家の中より、木陰で風を感じながらがいいんだろうな~。

そう言えば、

この本を読んで知ったのだけど、

お茶もお花も日本固有の文化と思ったら、元は中国から入って、中国で消えた文化らしい。

らしいというのは、中国から始まったか、インドから始まったか定かでない。

私が長年教わってきたことは、結局はすべて「・・・らしい」でしかない。

実際この目で見たわけじゃないのだから。


私は儒教を少し読んで、少しわかった気になってたけど、全然わかってなかった。

日本に入ってきた文化は、オリジナルと変わってしまうというのはわかったけど、

司馬遼太郎が、その辺を適確に表現してくれている。

日本の儒教は洋服で、中国の儒教は皮膚だと。

日本は儒教というより、漢学的思考法だから、簡単に脱げて洋学的思考法に着替えられる。

なるほど。

思ったのは、

やっぱり、例えがないと、私にはわからない。

洋服と皮膚と言ってくれて、ようやくその違いが感じられる。


日本人を救う方法は、普遍性を知ることで、

日本は、国家とか民族とかのレベルで他国を見て失敗し続けてきた。

そうでなく、

自分を住民として、中国の住民を見たらいい。

と、司馬遼太郎はいう。


さくらももこの『トンデモ本』というのがあって、

それが、まことに、とんでもない。

あれほど、意味の無い本は無いんじゃないかと思う。

海外へ辺鄙な所へ行って、意味の無いものを見てきて、意味が無いなー、と感じるような本なのだけど。

そこに

中国の奥地の奥地まで、漢方薬を買いに行く話しがのっていて。

そこまでゆくのに何日も何日もかかって病気になりそうなんだけど、

爺さんが、裏の山で育てている薬草をゴショゴショと煎じて漢方薬として売ってる。

一子相伝だったかな←忘れた

仙人みたいなんだけど、

そういう所には、西洋医学は入らないでしょ。

普遍性って、

そゆこと?

日本人はハウツー本は読むけど、

そういう意味のない本には、まったく価値を認めてない。

即答えの出てるものにしか、価値や興味を見いだせない。

出版社もそう、大人になればなるだけ、そうなのかなと思う。

普遍性で国家を作る。

んーーーーわからない(涙)


メシが一番。

中国は、人口の増加と土地の砂漠化で、食糧不足とエネルギー不足は日本以上に深刻。

メシを食うためには、かっぱらいでも何でもやるんだろうなー。多分理屈でも理論でもない。