悠久の片隅

日々の記録

若き数学者のアメリカ(愛)

若き数学者のアメリカ (新潮文庫)

若き数学者のアメリカ (新潮文庫)

これは藤原が初めてアメリカに研究員として招かれた2年間の話。

東京の両親からは、しばしば手紙が届いた。

母の手紙の最後には、必ず父の俳句がしたためられていた。

『紅梅の 色にじませて 春の雪』

にじませて・・・・・

が、いかにも、淡く、いじらしく、美しさが日本らしい。

にじむという美しさを、藤原正彦から感じられるのは、この親あってのことなんだと、理解した。

ミシガンは、ほぼ夏と冬しかないという。

深い雪に閉ざされた長い冬に、うっすら春を思わせる日本の美しい父の俳句。

アメリカでの疲れた毎日に、激しい郷愁を駆り立てられたと思う。

彼の文章の端々にみられる感性は、この父と母と郷土あってのもの。


藤原のアメリカでの論文発表は大成功を修める。

が、アメリカ人に舐められてたまるか!の過分な対抗意識からの生活と研究に精も根も尽き果てたのか

いつしか心を病んでしまう。

そうしてアメリカの景色は美しいとしても、悲しみがにじんでいないことに気付く。

日本は歴史が古いからか、土にも花にも、海にも山にも、石にも虫の鳴き声にも空気にも、

どこか物悲しさがつきまとう。

日本人はそこに美しさをみる。美しいものの美しさは認めても、心許せるものと違う。

悲しみのにじまない美しさの中で、藤原は自身が優しさから遠ざかっているのを感じ、

涙のある美しさこそ、人を心を優しくさせることに気付く。

あ~なんとなく納得。

私が武田勝頼義経を好きなのは、自分が優しくなれるからか。

信玄や信長は尊敬する。尊敬する相手に偉大さは感じても特別な優しさの感情はわかない。

弱いもの、儚いものは心を優しくさせる。

私は、優しくなれるものを愛するんだ。

それは、優しくない自分の存在を浮き彫りにしたことにもなるのだけど。

新田次郎は、読む者の優しさを引き出してくれていたのかもしれない。

アメリカは映画にアメリカの特徴がよく出てる。

とにかく強いヒーローが好き。そして成功やハッピーエンドが好き。

風と共に去りぬ』だって、日本人にはちょっと受け入れ難いものがあると思う。

自由奔放に強く生き抜くスカーレットに、私などどう共感したらいいのか戸惑ってしまう。


そんな藤原の情緒あふれる文章にも心ひかれるけど、

さすが数学者だなーと感じさせられるのは、分析力。

分析力は、まず観察力、洞察力、に思うけど、そこには好奇心、興味といった感情が働かなければ、

同じに見てても何も見えない。

人は感情抜きには、なかなか動かないように思う。

藤原はアメリカという国をこう分析する。

私から見るとアメリカ人はクレージーだ。

各自が自分の頭で考え、良いと思ったことはそれがどんなに珍奇なことであろうと迷わず実行に移す。

そして、行動というものにきわめて大きな価値が置かれている。

実行に移す前に多くの書物を読んで調べたり、

人々の意見を聞いて熟考するなどということはあまりしない。

行動することに価値があるのだ。

だから、老若男女の誰もがいつも忙しそうに活動している。

勉強に、スポーツに、PTA活動、地域活動、奉仕活動・・・・・。

彼らはきわめて活動的であるが、それが新しいことであったりすると、もう夢中になる。

どんなにくだらないと思われることでも、それが人のやったことのないものならそれだけで

価値があると考える。

この「新しいものへの好奇心」はやはり、フロンティア・スピリットなのだろう。

私はアメリカ人という言葉にも多少違和感を憶える。

アメリカには、多種多様な人種がいて、

アメリカに住んでいる人をもってアメリカ人というならアメリカ人だけれども、

私がアメリカに永住しても、どう考えても自分をアメリカ人とは思えない。

藤原が言うには、アメリカ人自身「自分はアメリカ人らしくない」とほぼ例外なく言うらしい。

どうやら、多様な人たちが多様な形のまま居るのがアメリカらしい。

これは当たり前のようで、当たり前でない。

『郷に入れば郷に従え』という日本(中国?)のことわざは、

アメリカでは滑稽なことなのかもしれない。

それぞれが、それぞれのまま居ることが、すなわち『アメリカ人』ということになる。

そんなテンデバラバラでも国として崩壊しないのは、国土が広大で資源があるから、余裕なのだ。

これはそっくりそのままオーストラリアにも言えるのだけど。

アメリカ人(アメリカに住んでいるという意味で)は、

とにかく『自分のすることに誇りをもっている』

私はそれを強く感じる。

それも、なんでそんなに高い誇りなのかわからないほどの誇り。

そのことを藤原は、こういう。

彼らは、行動を正当化するための理路整然とした、あるいはバカげた理屈をもっていると。

でも、意味のわからない強気の裏にホームタウンを持たない寂しさがある。

だから仲間意識より個人主義が強い。

アメリカという国は、私が日本に対して感じる祖国というものにはなり得ないのだろうか。

夢に破れつつも理想を捜し求めてさまよい歩くアメリカ人、

淋しさに歯を食いしばりながらもさまようアメリカ人、皆、私と同じ人々だった。

彼らはこの世界で安易な日々を送ってはいない。

涙をこらえ、もがいている。

私はこの「もがいている人々」に大変共感し、彼らをこよなく愛した。

彼らの人生はまさに旅である。

故郷のないことが旅を容易にさせる。

そして悲しくさせる。

彼らは、自由と独立、そして愛を求めて荒野の旅に出る。

「帰る場所」がない、という寂しさが彼らの背に影のごとくつきまとう。

彼らはもちろん、それをはっきりと認識してはいない。

生まれながらに「帰る場所」がないのだから、それが彼らの内に宿るそこはかとない淋しさの

大きな原因だったとは気付かない。

彼らの人生が孤独な旅であること。

そのことは、彼らが意識をしようとしまいと私には確かなことと思われた。

藤原は、初めアメリカに対して、強い敵対心で心を閉ざし望んでいた。

しばらくして徐々にアメリカ流に溶け込もうとしたが、逆に不自然になる。

やはり自分は日本人である。

その日本人のまま付き合うと、深く心が通い合えるようになった。

私はいつも自信満々のアメリカ人に淋しさを見たことはない。

寂しさや弱さの共感が出来ないから、隔たりを感じるんだなー。

大切なのは『愛』

愛するには、相手を知ること。知ろうとすることに思う。