悠久の片隅

日々の記録

日日是好日

日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ (新潮文庫)

日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ (新潮文庫)

タイトルやサブタイトルに『しあわせ』という文字をみるとちょっと敬遠したくなるのですが、

本の中の写真に、はぅ・・・・・目が釘付け。

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買っちゃいました。

静寂の中に、僅かな生きてる音が聴こえてくる写真。

石に落つる水の音、

人の所作、正絹の衣擦れの音、

鉄釜から上る湯気の音、

炭のはぜる音、

どれも、音、温度湿度が、伝わってくる写真。

皆生きてるんだ。生きてるから音がある。

写真ってすごい。

この写真から暫く目が離せなくなった。

いかに自分が日常せわしなく余分な音の中で暮らしているか・・・

生きているからそれぞれが、それぞれに音を発し、

聞きたくない声や音も沢山あって、自分も同じように発していて、

でも生きている人間の折り合いの中ではそれは当然のこと。

だから自分で自分自身の世界をもつための、それがひと時のお茶の時間で。空間で・・・

戦国武将がお茶を好んだのは風流なんてもんじゃなく、

それだけ毎日が殺伐とした中にあり神経が疲弊していたのだと思う。

幽かな生きてる音に、人の生死を思っていたんじゃないかな。

感性をとぎすまさなければ、お茶の深いところはわからない。

感性をとぎすまさなければ、殺される。

お茶と殺生。

似て相反するものだから不可欠だったのかも。

周囲がどうあろうと、雑音、雑念の無い自分の世界は自分で生み出すことができる。

静寂の中で冴えわたる音。

写真の中の音は私の想像の中の音で、現実よりも美化しているかもしれない。でもそれでいい。

感じることは私だけの世界。

人生がひとりひとり違うように感じることもひとりひとり違う。それでいい。


エッセイも良かった。

サブタイトルなんかで敬遠しないでよかった(笑)

昨日のお友達に「なんでお茶やめてしまったの?」と聞いたら

「お茶も、お花も、着付けも、書道でも、なんでもそうだけど、結局続けていくと段々お金がかかるの。

そのお金を払ってでもやりたいほど好きかどうかってなってくるの・・・他のものもやってると続かない(笑)」

そっか。

対象は違うけど、恋愛みたいなもので、どれほど好きかだけなんだな。最後は。

それもただ好きではダメで、何かを犠牲にしてまで好きかどうか・・・

突き詰めると、答えはなんでも同じで、そして単純なところに行き着く。


お稽古を始めたばかりのころ、私が「なぜ?」「どうして?」と質問を連発すると、

先生はいつも「理屈なんか、どうでもいいの。それがお茶なの。」と言った。

理解できないことがあったら、わかるまで質問しなさいと学校で教育されてきた私は、面喰ったし、

それがお茶の封建的な体質のように思えて反発を感じた。

だけど今は、そのころわからなかったことが、一つ、また一つと、自然にわかるようになった。

十年も十五年もたって、ある日、不意に、

「あ~!そういうことだったのか」と、わかる。答えは自然にやってきた。

お茶は、季節のサイクルの沿った日本人の暮らしの美学と哲学を、

自分の体に体験させながら知ることだった。

本当に知るには、時間がかかる。けれど、「あっ、そうか!」とわかった瞬間、

それは、私の血や肉になった。

もし、初めから先生が全部説明してくれたら、私は、長いプロセスの末に、

ある日、自分の答えを手にすることはなかった。

先生は「余白」を残してくれたのだ・・・・・。

「もし私だったら、心の気づきの楽しさを、生徒にすべて教える」

・・・それは、自分が満足するために、相手の発見の歓びを奪うことだった。

先生は手順だけ教えて、何も教えない。

教えないことで、教えようとしていたのだ。

それは、私たちを自由に解き放つことでもあった。

「作法」だけが存在する。

「作法」それ自体は厳格であり、自由などないに等しい。

ところが「作法」の他は、なんの決まりも制約もないのだ。

学校では、決められた時間内に、決められた「正解」を導き出す考え方を習う。

早く正しい答を出すほど優秀だと評価され、一定の時間を過ぎたり、異なる答えを出したり、

またそういう仕組みになじめない場合は、低い評価が下される。

けれど、お茶をわかるのに時間制限はない。

三年で気づくも、二十年で気づくも本人の自由。

気づく時がくれば気づく。

成熟のスピードは、人によってちがう。

その人の時を待っていた。

理解の早い方が高い評価をされることもなかった。

理解が遅くて苦労する人には、その人なりの深さが生まれた。

どの答えが正しくて、どれが間違っている、

どれが優れていて、どれが劣っているということはなかった。

「雪は白い」も「雪は黒い」も「雪は降らない」も、全部が答えだった。

人はみんなちがうのだから答えもちがう。

お茶は、一人一人のあるがままを受け入れてくれる。

私の意識の中で、オセロゲームの「黒」「白」がグルリと反転した。


桜模様のお湯呑みをいただいた。

陶器は水分を浸透します・・・と書いてあった。

お湯呑みもお茶を飲むんだな(笑)

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