悠久の片隅

日々の記録

今日という日は贈りもの

ネイティブアメリカン(アメリカインディアン)の叡智が詩と散文でうたわれている。

・・・家神の庭で・・・

近ごろわたしの庭では従順なバラが育っています。

 うっとりするほど美しかったけど苦痛も与えた若きあの日のあの刺(とげ)のある野生種でなく。

かえってわたしを窒息させた古い蔦(つた)類はもうわたしの家にはありません、そしていま


わたしが育てるのはわたしの老年の珍しい花だけ。家神の庭で

 わたしは祈ります、どうぞ最後まで生き抜く力を与えてくださいと

 わたしの行く道に雑草がありませんようにと。

わたしにはもはや招かざる客を容(い)れる余裕はないのですから。


近ごろわたしの庭の土は肥えています。

 古い恐れからは充足の種子が芽を出し

 夏の乾きは成熟となり、わたしの日々を満たします

家庭の庭では

ようやく従順なバラが咲いています。


・・・六月に月が通るのは耳を澄まして聞くという道・・・

 すべてのものの内には物語がある。風にも雨にも火にも。畑のトウモロコシが伸びると

きに立てる音にさえ。川には偉大な物語がたくさん。木の上でさやさやと揺れる木の葉に

も物語がある。年老いた石に生き抜く術(すべ)を聞こう。耳に小石を当ててその話を聞こう。

貝殻はびっくりするような話を聞かせてくれる。風に書かれた文字もまた。

 一番難しいのは沈黙を聞くことだ。 

沈黙の中では、自分の心臓の鼓動が聞こえる。連続性の脈拍が感じられる。

沈黙の中では、大きな夢を見ることができる。

自分自身の音楽を見つけることができる。

月ごとの詩、散文、瞑想に、慰められたり、ハっとさせられたり。

人と自然の共存というより

共存もなにも、人も自然でしかない。

大地は・・・誰のものでもない。

命も・・・誰のものでもないのかもしれない。

必要なものは与えられている。喜びも、悲しみも、勇気も。

そして返す時がきたら返す。


最後に、城山三郎と著者ナンシーウッドの往復書簡があって、

これもまた良くって、

カラスの訪問者の御土産はいつもその美しい羽です。

人に与えることができるのはこれだけなのでしょうね。

私も世の中が、こんな風に見えたらいいなと思っても、

思って見えるものでもない。

人の味覚がそれぞれ違うように、

異性の好みがそれぞれ違うように、

色の見え方、光の感じ方、音の響き方、肌への感触、

人の感覚はちょっとづつ違う。

同じ赤でも、人がどんな赤に見えてるのかはわかんない。

カラスの羽も美しいんだ~!

それなら、世の中すべてが泣きたいほど美し見えるんだろうなーって、羨ましくなる。

落ちているカラスの羽を

これはカラスからの出来る限りの贈りものと受け取る感性、

そんな毎日はきっと素晴らしいんだろうなぁ。


貝殻に耳を当ててみた。遠いグレートバリアリーフの潮騒が蘇ってきた。

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