悠久の片隅

日々の記録

俳句入門

高浜虚子による俳句の鑑賞手引書。

『木々の芽や新宅の庭とゝのはず  子規』

ふむ・・・

春になり、木々は芽吹いたものの、その趣は新しい家の庭には馴染んでいない

という句なのだけど。

芽吹くというのは、その前に確かなものがあってこそ生きてくるんだろうな。

という感傷。

家主の心と木々が一体になれていない。

うちは新宅(新しい家)ではないけど、庭を改造したのでこの句のようになっている。

色んなもの植えて体裁は整っても、地に足が着いていないのが余計に露呈されていって、

ため息状態。

庭は、

長い年月をかけ手入れをして作り上げてゆくもの。


今日は家の北側の駐車場の前にちょこっと苔があったから、

はがして庭の石にくっつけてみた。

南向きの庭に苔・・・

似合わないカツラを突然かぶせられたようで、不自然(笑)

きっとつかない。

今、1坪にも満たない箱庭みたいのを作っているのだけど、

自然じゃなく・・・どんどん不自然になってゆく。

裏のお宅からもらってきたツワブキギボウシをめいっぱい陽の当たる所に植えているのだから、

不自然が当たり前。

裏のおうちは、大きな木があったり、大きな岩があったりと、陰日向あるから、

日陰が好きな植物は日陰で大きく成長し、

日向が好きな植物は日向でしっかり根を張ってる。

長い年月に淘汰されながら、あるべき場所にある・・・・・

そういうお庭。

私が箱庭を作りたいが為に、

太陽サンサンと降り注ぐ場所にツワブキギボウシも植えたって不釣り合い。

本当はそれらの似つかわしい場所もあるのだけど、そこだと部屋から見えない。

それじゃつまんない。

そういう自分本位に植物が合わせてくれるわけもなく、

私は自然を不自然に操ろうとしているのでしょうね。

好きに配置はしてみたものの、まったく馴染んでない。

人間の意のままにされる自然とは、不自然なのだと思う。

夜は植物だって眠る。暗くなったら休む。

海水魚だって夜間は水槽の照明を落とすし、鳥かごだって覆いをする。

なのに夜間照明、これも人間の勝手で植物にとっては嘆かわしいこと。

でも最低限の街灯は、人間の安全と利便性のためには必要なのでしょうね。


自然の生態系を崩しているというけど、

生態系は元々が崩れゆくもの・・・に思う。

自然というなら、崩れていくことが自然のように思える。

自然の中では淘汰されるものは淘汰され、

とすると、最終的に1種類になり、

1種類だけでは、何ものも存在不可・・・となるのかな。

植物の生態は面白い。

雑草の中には、触れるだけでパチンとはじけて種を飛ばすものもいる。

またその種を運ぶアリがいる。

種の存続に皆必死だ。

人は、

日本人は安全神話の中で生きている。

絶対の安全など、どこにもあるわけないのに。

少しの危険性にも過敏になっている。

危険を嗅ぎ分け批判をすれば、過敏な社会はすぐ過剰な反応をし、共感を得られる。

安全性をうたうより、危険性を唱えたものの方が関心度は高い。

安全は、すでに当たり前という意識。

生物は生き残る為に生きている。危険に対して過敏であるのは当たり前。

でもそれが、今日本を一方向へのみ導いていることも不安に思う。

生きることは常に危険と隣り合わせであることを承知しないと・・・と、思う。


うちの庭は10年後だなー。

植えたもの1つ1つはお気に入りだし、とても可愛いのだけど、

いかにせん、植えたばかりの木が小さすぎて(まだ30センチにも満たない)

花も木も下草もすべてが同じくらいの高さで、

高さが生まれてこないと、すべて置き物みたい。馴染んでない。

その家々によって、土も風も日照時間、温度、湿度違う。

目に見えないものが違うから、なかなか教科書どおりにはいかないけど、

長い時間をかけて、私だけの庭育てていきたい。