悠久の片隅

日々の記録

疎ましい自分

朝面会に行くと、順調に回復しているので夕方には退院といわれたうちの犬。

病院から電話があって3回嘔吐したので、もうしばらく入院することになった。

良くなっている、退院出来る、と思って喜んでいただけに、あまりにショック。

私が迎えにくるのを一心に待っているんだろうに・・・と、犬の気持ちに応えてあげられないことが

なんとも耐え難い。

胸に鉛が乗っかって、この重苦しさをどうすることも出来ない。

花の小径

花の小径

もっと若いころは、私は父親には反抗してきたので、死なれてから深く傷つき、悲しみ、

それが逆にすんなり墓参りできない気持ちにした。

いまさら墓参りなどして心やすめることは、自分には許されないことのように思われたのだ。

だからそのころは、すっきりしない複雑な気持ちで墓参りをした記憶がある。

『自分は許されてはいけない。』

皆、同じなんだな。

そうなんだけど、そのことは今の私にはどうでもよくて、

私の胸のしこりは、犬のこと。それしかない。

本を読んで救われるわけもなく・・・

いつものことだが、少しまとまりのつかないあれこれを思いながら、上水辺りを歩いた。

友達の病気や不都合、また、なんということもないが、自分自身の気持ちのもたつきを抱えて、

私は無意識に何か気を晴らすような花でも咲いていないかと見回しながら歩いた。

が、野放図に猛る雑木雑草の中に目を引く色合いは何も入ってこない。

(中略)

歩いても歩いても、気は晴れなかった。

うんうん・・・私も・・・

どんな本を読んでも、花を見に歩いても、この気の塞がりはどうにもならない。

ペンキじゃあるまいし、

人の心の中の黒いものが白に塗り替えられるなんてことはないのだ。

灰色にだってなりはしない。

考えてみれば、

犬が病気で胸が塞がれているのだから、犬が治癒する以外気が晴れる方法など無い。

苦しみの元の解決無しで、私が救われることなどあるわけない。

犬を飼ったのは私だ。いや私じゃ無いけど、飼っているのは私だ。

ぬいぐるみじゃないのだからしっぽも振るけど、病気もするし、いつかは死ぬ。

その時、私が代わりに入院することも死んであげることも出来ない。

ただ犬の悲しみを一緒に引き受けるしかない。

それが犬を飼うということ。それが心得。

この苦しみから私だけ逃げようとしたらいけなくて、今はこの鉛のような重石を抱いているしかない。

それに、

実際には、私の胸に重石など無い。言葉上のメタファー。

現実には存在しない重石を乗っけてしまっているのは自分。

気分が塞いで何もしたくないのも、自分の言い訳。

自分の行動など、自分の都合のいい解釈で幾らでも言い訳出来る。

でも所詮どんなことも空々しい弁解。

そこにいちいち意味付けするのは、不安な自分を守るため。

言葉で守って逃げている。

本当は世の中のどこにも意味も答えも無いのに。

意味のない状態、答えの無い状態は人間は不安なのだ。

世の中で答えがあるものなんて学校のテストくらいなものなのに。

高浜虚子の言ってることが、なんとなくわかる・・・

ありのまま、のなんと難しいこと。

紛らわすことの出来ない胸の痛み。

痛い痛いと泣いてやり過ごすしかしょうがない。

いや、現実を直視すれば病気なのは犬で私は元気なのだから、

私がヘタレているのはおかしいし、それで病気がどうなるものでもない。

人智の及ぶとこではないことに、私はあれこれ悩んでいる。

情けない・・・・・

助けて、助けてと、心は狂いそうだけど、

誰も何も私の助けにはならないことも心得ている。

悲しいこと苦しいことは、どんな身の上にも起こる。犬も然り。

この世に生を受けた以上、

命というもの授かった以上、悲しみを背負っていくほかないと、わかってはいる。

日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ (新潮文庫)

日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ (新潮文庫)

人生に起こるできごとは、いつでも「突然」だった。

昔も今も・・・・・。

もしも、前もってわかっていたとしても、人は、本当にそうなるまで、

何も心の準備なんてできないのだ。

結局は、初めての感情に触れてうろたえ、悲しむことしかできない。

そして、そうなって初めて、自分が失ったものは何だったのかに気づくのだ。

でも、いったい、他のどんな生き方ができるだろう?

いつだって、本当にそうなるまで、心の準備なんかできず、そして、あとは時間をかけて少しづつ、

その悲しみに慣れていくしかない人間に・・・・・。

だからこそ、私は強く強く思う。

会いたいと思ったら、会わなければいけない。

好きな人がいたら、好きだと言わなければいけない。

花が咲いたら、祝おう。恋をしたら、溺れよう。嬉しかったら分かち合おう。

幸せな時は、その幸せを抱きしめて、百パーセントかみしめる。

それがたぶん、人間にできる、あらんかぎりのことなのだ。

だから、だいじな人に会えたら、共に食べ、共に生き、だんらんをかみしめる。

一期一会とは、そういうことなんだ・・・・・

生きていれば、いつ落とし穴があるかわからない。

でも、歩む先のどこかに落とし穴があるとわかっていても、歩み続ける以外どうしようもない。

転んでわかる。

私は情けない。自分で思っていたよりずっとずっと情けない。

自分なんてもんは、起こる出来事でガラっと変わってしまう不確かなもの。

なんと頼りにならないものだろう。

どんな理屈も通用しない。雨が降る日は、じっと雨音を聴く。

今在ることをあるがまま身を浸そう。自分の心をごまかさず。

今私が出来ることは祈ること。一心に祈ろう。