悠久の片隅

日々の記録

インドシナ半島

人間の集団について―ベトナムから考える (中公文庫)

人間の集団について―ベトナムから考える (中公文庫)

人間の集団がもっている馬鹿と利口というのがどういうことなのか。

生産の低い仕事を平気でやっているのが馬鹿なのだろうか。

その面では馬鹿にはちがいなかろうが、馬鹿者の集団には利口者の集団がもっていない文化性の密度

というものをもっていて、じつはひそかに利口者の集団を軽蔑しているのではないか。

日本人は、エコノミックアニマル(仕事中毒)と蔑視されることがあるけど、

高度成長する日本へのやっかみ以前に、本当に何故そんなに仕事をしたいのか、

何故生産性をあげたいのか、わからないのだと思う。

利潤の追求と幸せの追求と結びつかない人など、いくらでもいるのだ。

カンボジア人とラオス人は、伝統的にインド文明を受容してきた。

千年以上、中国文明を受容してきたベトナム人とは、物事に対処するときの精神や肉体の

身動きがちがうのである。

ごく概念的にいえば、瞑想的インド思想から利口で器用だという面での人間の性能はひき出されにくく、

一方、非瞑想的で現実を重んじる中国文明からは、そういう能力が比較的ひき出されやすい。

(中略)

小乗仏教で人間が作られているカンボジアラオスにあっては、クレヴァーであることが

人間の価値判定の基準であるとはおもっていないかもしれない。

ベトナムカンボジアラオスと、インドシナ半島の国々は、

インドの文化とシナ(中国)の文明文化が織り交ざっている。

インドの輪廻転生の思想とは

今生の不幸は前世のカルマで仕方ない。

殺されることは不幸だけど、仕方がない運が悪かったのだ。でも来世に希望がある。

と、不幸も受容してしまう。

私たちの人生1度きりという考え方、インドのまた次の人生があるという考え方。

多分輪廻転生に『1日が24時間じゃ足りない』という感覚も考え方も、ないと思う。

彼らにとって『食べて、寝る』ことが生きることで、それは24時間で充分足りうる。

そんなところに私たちの価値観で、資本主義をもっていっても彼等は幸せになれるわけではない。

生きることの命題も、幸せの定義も違うのだから。

人間も国も歩むスピードはそれぞれ。

傍からみて出来ることは、相手を知ること、見守ること。

手を出すのでなく、手を貸すこと。

集団のもつ正義が強烈であればあるほど人間は「食べて、寝て、愛する」という素朴な幸福から

遠ざかるものであるらしい。

この本は、ガツンときた。