悠久の片隅

日々の記録

人間の集団について

人間の集団について―ベトナムから考える (中公文庫)

人間の集団について―ベトナムから考える (中公文庫)

この本は50年前、ベトナム統一以前に書かれたものであることを踏まえて。

日本には理念が無いらしい。

そうか・・・。

国家の理念とは虚構で、理念とは、そこにのっとって、国民を方向性づけるもので、

例えば「天皇万歳」が理念としたら、国民は1億玉砕しても現実化させなければいけない。

日本はそういう悲劇があるせいなのか、

理念(ベクトル)を持つこと、あらわにすることを、感覚として嫌がるのかもしれない。

ヒットラーを見てもわかる。正義の名の元に行われる国家の行為は虚構なのだ。

国家の理念が強いと、中国のようになる。

今、理念が無いお陰で日本国民は規制もなく自由で、

その代わり何か起こっても、うやむやになり、経済も無秩序に競合し、かろうじて保っている状態で、

国がどの方向に向いているのかわからない。いや、どっちにも向いていない。

その都度、その時の空気が決める。

空気が決めるというのも、不思議なものに思うけど、

誰かが決めるのもよくなくて、どちらに決めるのもよくなくて、

そんな空気が支配しているのが今の日本国なんだ。

トップが象徴天皇というところによく表れている。

象徴という曖昧さ。そこに日本中が合せてやっていけるのが、そもそも空気にほかならない。

空気でなく、現実に推しの強い先導者には日本人は無意識に拒否反応をもつのかもしれない。

太平洋戦争で日本は『天皇万歳』の理念(これを理念というかわからないけど)で立ち向かったが、

ベトナム人も今の日本と同じに理念をもたない国家らしい。

理念をもたないままベトナム戦争は15年続いた。

いったい何を守り、なんの為に死んでいくのかの、絶対的なものを持たずに戦うということは、

どういうことなのか。

ベトナム戦争は、アメリカ対ソ連+中国の代理戦争ともいえる。

武器はすべてアメリカ、ソ連、中国から調達されてくる。

ベトナム人がやる気があろうとなかろうと、武器が送られてくる限り戦争は終わることはない。

ベトナム人にとってなんという悲劇だと思うのだけど、

アメリカが疲弊し、もう終結にしよう。コチラからは手を出さないように。と、指示を出しても、

なお目の前のあり余る武器を手にベトナム人は攻撃をやめることは無かった。

ベトナム戦争を長引かせたのはベトナム人自身でもある。

何故だ?!

アメリカが手を引こうとしているのに、理念も無いのに、ただ武器があるというそれだけで、

戦ってしまうベトナム人。

ベトナム人は穏やかです。シャイです。そして賢いです。器用です。

でも、人間は最強の武器を手にすると、戦うマシン化としてしまうのかな。

理念という虚構より、目の前の何よりも確かな武器。それを信じてしまったのだろうか。

ベトナム戦争の傷跡は深い。

これが領土を争う戦争ならまだマシだと司馬遼太郎はいう。

「ここには食べ物がたくさん飛んでます。たくさん泳いでます。」というベトナム人にとって、

アメリカ的自由を持ち込むのは、無理があった。

反共というイデオロギーの介入は、ベトナムを混乱させた。

資源豊富なベトナムは、それこそ何不自由なく、自給自足でやってきていた。

ベトナム人はネズミやヘビも美味しいと食べる。

一年を通して気候がよく、農作物も豊富にとれ、石油も天然ガスもある。

戦前には泥棒はいなかったというくらい、のんびり豊かに暮らしていたのだという。

その為、商業、工業など産業を伸ばそうという欲が芽生えない。そういう人種ではない。

だから発展してゆかなかった。発展することを必要としなかった。

後進国の多くは、共産主義という、一種の鎖国主義をとる以外に方法はなさそうである。

国家の牆(かき)を高くして、人民を世界の消費文明から無菌状態にさせるのである。

かれらにその面での欲望を持たせず、というよりその欲望を徹底的に国家管理して、

無菌の牆のなかで国家を産業化させる条件を少しづつつくってゆくのである。

それをアカだというのは海のかなたからみたかん違いで、産業革命から一世紀半という

致命的な遅れをとってしまった後進国としてはやむをえない方式といっていい。

そうでなければ、おなじ貧困の管理方式としてファシズムがある。

それが不愉快だとするのは、世界史のなかでいま後進国の置かれている条件を

十分に理解してやらない見方といっていい。

お伽噺のように現実的でないのは、欲望の刺激と自由競争によって国をつくろうという

アメリカ式の方式である。

世界の国々を見た時に、

人間で考えれば、いち早く産業革命を起こし、もうすでに達観したイギリスのような老齢な国もあれば、

今やっと歩き出した発展途上の幼い国もある。

そういった国々が自由経済という同じ土俵に立つのはあまりに無謀だと私でも思う。

幼子にいきなり自由主義を持ち出して、

商売にまったくといっていいほど疎いベトナムにいいことがあることがあるわけない。

日本もローカルを充実させ、それからグローバルへと向かっていった。

そして今TPPへと向かっているんだか、向かわされているんだか。

それを思うとアメリカは変わらない。

人間の集団というのは、多くの場合、敵によって成立している。

敵をもってしまった集団というのは、じつは敵によって集団の理性と感情を作らされてゆくために、

「同じ民族じゃないか」という勝海舟的な発想は、通用しなくなるものらしい。

司馬遼太郎の深い洞察力。

この本はベトナム紀行記でもあるのですが、

ベトナム人は植物のように感じるという司馬はあとがきに

私の半生のなかで、このベトナムにおける短い期間ほど楽しい時間はなかったように思える

という言葉でしめくくっている。