悠久の片隅

日々の記録

春宵十話

イチローが日米通算4000本安打を達成した。

ひとえに4000本といってもわかりにくい。

でも名球会2人分と考えると、どれだけの偉業か想像が出来る。

超一流といわれる選手が、届くか届かないかが名球会入りの2000本安打

プロの選手が一生をかけて達成出来るか出来ないかのことを2度も成し遂げた。

世界に誇るもっとも偉大な日本人プレーヤーに思う。


春宵十話 随筆集/数学者が綴る人生1 (光文社文庫)

春宵十話 随筆集/数学者が綴る人生1 (光文社文庫)

岡先生も、世界的に不可能といわれていた問題を3つも解いてしまった天才数学者。

国家の品格』の中で、この本のことが出ていたので、取り寄せて読んでみた。

以前読んだ小林秀雄との対談『人間の建設』の中で特に印象的だったのは、「数学とは情緒です」の言葉で、

この本も終始一貫そのことが述べられている。

情緒であり、その中心は調和である。と。

それは、数学にも芸術にもいえることで、

多分、ものごとは突き詰めればすべて同じとこにたどり着くのではないかと思う。

その中で、数学とは『確かさ』だと。

確かさとは、確かか、確かでないか。

そこをはっきり答えなければいけない。

右足を出して確かなら、左足を出す。そうして確かな一歩づつを歩む。

私は数学が苦手で、

わかってるんだか、わかってないんだか、何がわかっていないのかもわからない。

億劫なので華麗にスルーしていたけど、

これは数学の問題でなく、人間の道義の問題だという。

数学と向き合うというより、

億劫なことは放棄する癖をつけてしまったかな。

傷もまた、傷のまま成長する。傷のまま大きく育つという。

子供の時の長所も短所も大人になると増幅されるのかもしれない。

結果(テストなど)は、あくまで結果。

本当はテストなど無くても、わかっているかわかっていないかは、

自分が一番わかっている状態にしていくのが学びで、学ぶことは人間形成から成る。

そう考えると、今の教育は根本的に違っているなぁ。

理数系といって、理科と数学は同じ系統のようだけど、

職業で例えれば、数学はお百姓さん。種をまく人で、物理は加工。まったく違うという。

原爆は物理学で作られた。数学者は調和を仕事としているので、そのようなものは作らないそうだ。

人は、法律ではないところの道義に信頼を託して生きていることを忘れてはいけない。

道義の根本は、人の悲しみがわかるというところにある・・・・・・

重い言葉だなぁ。

イジメは犯罪です。だからしてはいけいのではない。

極端にいえば、犯罪なんてものは死刑になる覚悟さえあれば、なんでもしてもいいことになる。

そうじゃない。

道義にもとる行為だからしてはいけない。

人が悲しむことだからしない。

イジメが犯罪かどうかなんて言っているようでは、照らし合わせているものが違う。

犯罪で無ければ原爆を作っても、落としても、いいことになる。

西欧では倫理感というけど、日本ではニュアンスが違うように感じる。

いいか悪いかの判断ではない。

人やものを慈しむ心。そこから悲しみがわかるという心は生まれるように思う。

悪いことだからしてはいけないのでなく、

人を悲しませることは出来ない。誰かが悲しいのは見ていられない。

倫理観として理解するのでなく『人が悲しむことは出来ない』

それは高尚な心で、そんな心が完成するのは中学生くらいではまだ無理なのかもしれない。

倫理観としてわかることは、脳の理解で限度がある。

『そんな悲しいこと出来ない』というのは、他者の悲しみを自分のものとすることで、

小さく儚いもの、美しいものは、自分の外に存在するものではない。

自分の中で育まれた心の中にある。

また他者の悲しみを一身に背負ってしまうと、悲しみに耐えられず、これまた生きていくことが難しくなる。

どんなに美しい心も、とことん突き詰めた先は破綻してしまう。

壊れそうな心のギリギリのところに、情緒の調和は存在するのかもしれない。