悠久の片隅

日々の記録

蜻蛉日記

『なげきつつひとり寝る夜の明くるまはいかに久しきものとかは知る』道綱母

千年前も今も、女心は変わらない。

まったく変わらない。

一晩中、男性を待つ身のつらいこと。そんな夜がいかに長いか・・・

直球で伝わってくる。

昔の結婚の形態は、男性が女性の元へ通ってくる通い婚。

(今夜は私の元へ来てくれるのでしょうか。それとも、別の女性の元へ行かれるのでしょうか。)

夜もまだ早いうちは、期待に胸を焦がし、

夜も更けると共に期待は、あきらめ、絶望へと変わる。

夜がいかに長く、苦しいものか・・・


中心とは、常に一点です。

すべての中心は、自分。

人間は、そうやって生きている。

でも、恋をすると、心の中心にもう1つ中心が出来る。

恋する相手を、自分の中心にもってきてしまう。

女性は、離れている時は、相手を心の中心にそえてしまう。

胸の中は、その人が中心であり、すべてであり、自分自身さえないがしろにする。

好き。愛してる。会いたい。

でも会えると、今度は自分を中心におき、

離れていた時間の恨み、つらみをすべて相手に投げてしまう。

そうして、ひとりになったとき、

また相手を中心にそえ、自己嫌悪に陥る。

大好きなのに、大好きなのに。こんな自分が嫌でたまらない。

本来、1つであるはずの心の中心が2つになってしまうのが恋に思う。

その2つが不均衡に入れ替わる。

男性は逆でいられるような気がする。

離れている時間は自分を中心に置き、会える時間には相手を中心にそえることが出来る。

女性には考えられないこと。

そんな効率よく出来る男性をズルイと感じる。

私はこんなに苦しいのに。なんでそんなに都合よく出来るのか。

心をコントロール出来ないのが愛だと思っているから、きっとコントロール出来るのは愛が足りないせい。

都合よく出来るのは、愛が足りないせいじゃないかと疑う。

もっと私を愛して・・・


『なげきつつひとり寝る夜の明くるまはいかに久しきものとかは知る』

女性にとって会えない時間がいかに長く感じるか、男性にはきっとわからない。

多分、時間の進み方も違う。

男性にはきっとわからない・・・・・

そんな女性の気持ちを道綱母は、『蜻蛉(かげろう)日記』に記す。

女性が書いた初めての日記です。

今でいうブログですね。

道綱母の夫、藤原兼家は、当時最高のお家柄。

人もうらやむ玉の輿だったかもしれない。

でも妻ではあっても正妻ではない。そして他にも女性がいる。

ほかの女性に子どもが出来、その子が亡くなった時には

「胸のすく思いよ」という言葉を残している。

正妻は仕方ないとしても、後からの若い女性に対しては許せないものがあったのでしょう。

その心情を包み隠さず吐露している。

今の時代、子どもを失った女性に「胸のすく思いよ」などとブログに書いたら、ブログは炎上する。

感情より理性。

個人より、まず社会の中でどうあるかを尊ばなければ、社会の一員とは認められない。

女性は美しいです。

でも醜さもなくなったわけじゃない。

社会を気にして出さないようにしているだけ。

好きな人の別の女性の子を憎く思うのも、女心。

これもまた真なり。

歴史を重ねていくと、社会からの足枷が多くなっていく。

国家を安定させるためには、どうしても個人を縛る必要が出てくる。

でも社会形態は変わっても、女心なんて千年前も今も変わらない。

蜻蛉日記の女心が痛いほどわかる。

男を慕い身悶える夜は続く、

そうしてゆくうちに女は年をとる。

自分を鏡に映しながら(だからあの人は来てくれないのね)と、

自分の分を顧み、あきらめともいえる境地に至る。

女性って悲しい。たまらなく悲しい。

もちろん、男性も悲しい。また別の意味で悲しさをもっている。