悠久の片隅

日々の記録

更級日記

浮舟でありたい、またはもしかして物語作者でありたかった孝標女。

平凡を厭い、「何者かでありたい」という思いは、誰にでもある。

しかし現実には何者にもなれずに、過去の自分を慈しみのまなざしで見つめ、

「若かった」と苦笑いをして多くの人は晩年を迎える。

しかし、孝標女は筆を執った。

古びた歌の反故(ほご)たちを取り出し、家集を飛び越えた「日記」を編み出した。

それは贖罪(しょくざい)の記であったかもしれない。

それでも現代の私たちがこの日記を読んで思うことは、

平安時代にもこれほどロマンティックな夢を見る少女がいたのだ、

親に人生を振り回される女がいたのだ、夫と子供に夢を託すしかない主婦がいたのだ、

という、彼女の実在感。

話す言葉と習慣が違うだけで、平成の世にも孝標女はたくさんいる。

孝標女とは『更級日記』の作者。

日記には13歳から52歳頃まで40年間が綴られている。

浮舟とは源氏物語に出てくる『運命に翻弄されるヒロイン』で、

薫と匂宮の2人の貴人に愛され、(この身を2つに引き裂けないなら)と、宇治川に身を投げる。

一命はをとりとめたものの、その後の人生は出家という道を選ぶ。

少女時代の孝標女は、そんな浮舟に憧れる。

光源氏のような人に年に1度でも通っていただいて、浮舟のように山里に隠しこめられ、

物思いにふけりながら、花や紅葉、月や雪を眺め、すばらしい手紙を待つような日々を送りたいものだわ」

でも現実は、30歳過ぎて親の決めた相手との結婚。

相手は薫や匂宮とは程遠い普通の男性(笑)

「夢なんてひとつも叶わないわ・・・」

それでも、子どもも授かり、それなりに平凡でも満ち足りた日々を送るが、

夫が亡くなると、一家は離散、老いた孝標女だけが邸にひとり残った。

ある時、甥が訪ねてくる。その時詠んだ歌が

「月も出でで闇にくれたる姨捨(おばすて)になにとて今宵たづね来つるらむ」

(月もない闇の姥捨山になにをしに今宵やってきたの?)

悲劇のヒロインを夢見、いつか自分も♪と胸を膨らませた若かりし頃、

でも月日は流れ、

ただの平凡な一主婦として、今はただ年老いて、仏に支えられなんとか孤独な日々を繋いでいる。

源氏物語更級日記も、

物語、あるいは日記が、どこかにたどり着くわけでもない。

実際、人生もどこかに到達点があるわけでもなく、何かを掴んで終わるわけでもなく、

でも、この頃のものは、だんだんに仏に近づいていくようなところがある。

仏というより、信仰に救いを見出し、すがっていくことで、フェイドアウトしていくようなところがある。

>「光源氏のような人に年に1度でも通っていただいて、浮舟のように山里に隠しこめられ、

物思いにふけりながら、花や紅葉、月や雪を眺め、すばらしい手紙を待つような日々を送りたいものだわ」

いいな~、こういう生活。

通ってくれなくてもいいなぁ。手紙だけのやり取りの方が、現実味が無くていい(笑)

蜻蛉日記道綱母は、時の人を夫にするという夢物語を現実にした人の日記で、

更級日記の孝標女は、そういう世界を夢見ながらも、普通の主婦に終始した人の日記。

子供の頃は「何者かになれる」って思っているんだけどね、

大抵は、その他大勢みたいな役どころで終わる。

孝標女もそんな日記なのに、千年も名を馳せるなんて、孝標女さんはやっぱり普通の主婦じゃない。

かっこいい。

やさしい古典案内 (角川選書)

やさしい古典案内 (角川選書)

今年は古典を読もうと思ったのに、全然読んでない。

古典という高いハードルをどうしたら低く出来るのかな。

こういう本を読むと面白くて読みたくなるんだけど、

逆にこういう本を読んで、読んだ気になってしまうのも困りものなのです。