悠久の片隅

日々の記録

生と死

明治の日本政府が祝祭日を制定したとき、お盆を祝祭日から除いてしまった。

お盆は、正月とならんで、何百年の間、日本人が、最大の祝祭日として祝ってきた日なのである。

したがって民衆は、慣習に従って、お盆を帰郷墓参の日とし、そのために、多くの会社は、

現在まだ、お盆に休暇を与えている。

正月とお盆、それが、日本人にとって、最大の祝祭の日であった。

私は、それは、生と死の祝祭の日ではないかと思う。

正月は、生の復活の日、そしてお盆は、死者との対話の日である。

人生には生と死がある。

そして、死が、人間の避けえざる終点であるとすれば、人は生前、死に対して思いをはせると共に

同時に、日々の生活において忘れがちな死者を想起すべきなのである。

死者と出会う日、それは、すべての労働から離れて、人が魂としての自己に目ざめる日なのである。

私は、お盆を正月と共に、最大の祝祭日とした日本人の感覚は、

生死に対する正しい感覚だったと思うのである。

ところが、このような感覚を、明治以降の日本人は、全く忘れてしまった。

祝祭日がかつての天皇家中心の祝祭日から戦後の民衆中心の祝祭日に変わったときも、

祝祭日の真の意味、つまり魂の卑近な現実からの解放、死者の追想、生の再生という意味は

全く失われてしまったのである。

われわれにとって、祝祭日は日曜日と共に単なる労働の休みの日である。

そこにおいて人は、労働から解放されるのである。

労働のない休息の日、現代では、祝祭日はそのような消極的な意味しかもたない。

そしてひとびとはこの休みの日に、ちょうど、労働の日に単位時間において出来るだけ多くの能率的な

仕事をするように、単位時間において出来るだけ多くの快楽をむさぼろうと努力するのである。

かくて休日は労働日と同じように忙しい日となった。

われわれは忙しくて、生のことも死のことも考えるひまはない。

われわれは祝祭日の意味を見失っているのである。

そして祝祭日の意味と共に、生の意味すら見失っているのではないか。

欧米に合わせ、日曜日が休日になったのは明治から。

それまでの日本は、田や畑、山、海は神が宿る場所で、

お休みの日は、神様の邪魔してはいけないから、働くことを禁じられていた。

暦が無かった頃はお月様がまん丸くなったら、お休み。

すべてが自然を中心とし、人間の生活は回っていた。

欧米での産業革命や科学の発展は、キリストという神が土台にあってのものだけど、

日本は神を殺し、人間を中心に世の中を組み立てるようになっていった。

仕事が複雑化してくると、遊びもまた複雑になる。

科学の発展により、様々な恩恵を受けていることに心から感謝しています。

ただ、ありがたい事ではあるけど、それと人間の幸せはイコールではないように思う。

日本人は合理的でないことを大事にし、そこに大きなウエイトをおいていた民族に思う。

「ご飯をよそる時は、1回でよそってはいけない。

1回でよそり終えてしまったら、形だけでもいいから2回よそる真似をしなさい。」

父に教わったことは、それが何故なのかは知らない。

仏様のご飯が1回でよそるものなので、仏様と人間を同等の扱いにしない為か、縁起が悪いためか、

理由はわからないけど、教わったままに今もそうしている。

こんなことを「なんで?」と親に尋ねたところで、

「そういうものだ!」と、言われるに決まってるから聞かない。

なんだかわからない『そういうもの』は、いっぱいあった。

水は蒸発すれば、何もなくなる。

でも水蒸気が集まって、雲になり、雨を降らせる。

水は、水道から出るものではない。

目に見えるのは水道から出てくる水だけど、水道が水を作り出しているわけでもない。

人間も細胞をマクロで考えれば、水とたいして変わらないように思う。

死んで何もなくなってしまうけど、

自然の循環の一部として、永遠の何かに・・・そんな感じがする。

親鸞の言葉の

『あらゆるいのちあるものは、くり返しくり返し生まれ変わり、生き変わりするなかで、すべてがつながっていくのだ。』

というのと、

ユングの河合先生の言葉の

『すべては自己です。この机も椅子も自己です。』

は、全然違うことなのだけど、

私には、どこかでつながっていて、

だからユング親鸞も『他力本願』という、自らでなく、あちらからやってくる。

ところのものを感じているんだと思う。

だからね、

私はやっぱり人の死も、あちら側からやってくるんじゃないかなって思うのもあって、

誰かが、何かが、お迎えに来るんじゃないかなって思っている。

お医者様の力でも家族やマザーテレサの愛でもどうにもならない『何か』があるんじゃないかな。

人は、大きく分けると、

生きている人と死んでしまった人に大別出来ると思う。

死んでしまった人は、今は『無』だけど、最初から存在しなかったわけではない。

だから『無』ではない。

その死んでしまった人を『無』にしてしまうのが、人間に対する合理化に思う。

生きている人が誰も経験したことがないのが『死』です。

その『死』を経験した人を蔑ろにすることはしたくない。

この辺のお年寄りは、お盆は、家を空けない。

仏様が帰ってくるからというより、お盆とは『そういうもの』と思ってる。

そんな意味のないようなことに、実は大切なことがいっぱい詰まってると思うけど、

こういう根拠のないことは、蔑ろにされていくのでしょうね。

人の一生なんて、自分が思うよりずっとずっと短い。

でもだからといって、何も変わらない。

そして、どこにもたどり着かず、中途半端なとこで終わりをつげる。

その続きは、雲になり、星になり、永遠の何かとして、問いかけ続けるのかもしれない。

日常の思想 (集英社文庫)

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