悠久の片隅

日々の記録

新古今和歌集

『往生』・・・往きて生きる。

そうか。そういう意味だったのか。今初めて合点した。

不思議と本は違うけど、昨日の続きになっている。

往きて(逝きて)

要するに死んで永遠の『生』を授かる。

それが往生。

死んでプツンと終わるのでなく、そこから永遠へと繋がるという捉え方。

実際は、知らない。

死んだらすべておしまいかもしれない。

でも水でさえ、終わらないからなぁ。

生きとし生けるものというより、雨も風もすべてが生きとし生けるもの同様。

水は恵みでもあるし、脅威にもなる。

人間も同じ。

生命はすべて繋がっている。

私が頭で考えるよりずっとずっと深淵な世界なんだろうなぁ。

やさしい古典案内 (角川選書)

やさしい古典案内 (角川選書)

読み進めるほどに、穏やかな心持ちになる。

新古今和歌集』の編纂は、後鳥羽院が発足した一大文化プロジェクト。

時代は王朝から鎌倉武士の社会へ。

血なまぐさい世に、貴族文化復興をかけ心血を注ぎ作られた。

正統な皇室の証しである三種の神器が無いままに即位した後鳥羽院のコンプレックスが、

朝廷のしきたりや文化を重んじることで、

正統性をアピール、また幕府に対して格式を示したかったのかもしれない。

のちに、承久の乱により後鳥羽上皇隠岐の島に流される。

新古今和歌集は、感情より理知。風景というより観念(より複雑な)の世界だったのが、

隠岐の島に流されてからの後鳥羽院の歌は、情景と感慨が素直に詠まれている。

島での晩年、後鳥羽院は心血を注いだ『新古今和歌集』の改訂を手がける。

いわゆる『隠岐新古今集』である。

改訂の理由は、隠岐本の跋にいわく、

あれもこれもと入れすぎたこと、そして自分の和歌を30首も入れてしまったこと。

撰者たちに迎合してしまったことと、王者としての驕(おご)りがこの集の質を下げた、というのである。

隠岐で19年という歳月を過ごした後鳥羽院は、都を遠く離れたことで純粋な一歌人としてあらためて

新古今集』を見つめることができたのだろう。

自分の和歌を削ってでも優れた歌集を作るー

それは、和歌という宮廷文化を担う、実に王者らしい姿ではなかったか。

延応元年(1239年)後鳥羽院60歳、歌人として隠岐に死す。

人は成長していくと、色々なものを身につけていくように思うけど、

その次の段階として、どんどん削ぎ落とされていくように思う。

むしろ、裸に近くなっていくのが人なんじゃないかと。

怖いのは、ギャンブルや異性にのめり込み身を落としていくことではない。

それらは、自分でも認識があるからまだ救いがあるけど、

本当に怖いのは、安定している時。

人間安定してしまうと、見えるはずのものが見えなくなる。

見えても見えないことにしてしまう。

安定を守るため、魂を売ってしまう。それが人の業。

でも、後鳥羽院はかっこいいな。

島流しという憂き目にあったことで、この人は後世に株をあげたと思う。