悠久の片隅

日々の記録

日本人と日本文化

最近小説を読んでないなーと思いつつ、

読みやすいものについつい手が延びる。

日本人と日本文化―対談 (中公文庫)

日本人と日本文化―対談 (中公文庫)

司馬遼太郎ドナルド・キーンの対談。

初版が1972年になっているので、40年前の対談ですが、

普遍的な話なので、今読んでもまったく違和感無し。

日本人は、元々『たおやめぶり』の民族ではないかと、司馬遼太郎はいう。

たおやめぶりとは女性的で、ますらおぶりが男性的。と、私は解釈しているけど、

要するに、日本人は、ゴールデンボンバーの『女々しくて』なわけだ(笑)

男性は男らしさにこだわるけど、

実は流れている血は『たおやめぶり』なのではないかって話。

古事記のあっけらかんとしているところは男性的だけど、

日本の文学をみると、現在の『女々しくて』に至るまでやはり『たおやめぶり』でしょうね。

ギリシャ彫刻のような力強さ、アーサー物語のようなカラっとした空気は、

日本とは異質の文化と感じる。

日本の湿潤な風土がそうさせたのかな。

カラっと吹っ切れたものの考え方に憧れはしても、

どこかに切なさが漂うような、たおやめぶりが、日本人の感性にはあるのだと思う。

いかに男らしくと口ではいっても、

特に文字にした時には女々しさが出てしまう。

紀貫之なんて男だと女々しいことは書き残せないから、女性になりすまして『土佐日記』書いてるし。

それが日本文学、日本の歌詞全体に纏わりつく空気で、

それを「女々しくて 女々しくて 辛いよ~」と歌いながら、

自虐ネタにして、あそこまで突き抜けたパフォーマンスをするのもまた絶妙なアンバランス♪


足利義政の考察も面白い。

司馬遼太郎もドナルドキーンも足利義政は一種の『気違い』でしょ。で合意。

今は差別用語で使えないけど、

義政は、銀閣寺の人で、侘び寂びという日本の文化の礎を築いた人。

その文化が、気違いから生まれたという事実も大事なんじゃないかなぁ。

ものすごく臆病で、情けない人で、虚言癖があって、

将軍なのに、政治のことはすべてあきらめていて、

病的なほどの現実逃避が、文化への依存となったのかわからないけど、

あまりに弱い人だから、穏やかに暮らしたかったのかもしれない。

よくホテルのロビーなどで見かけるデーンと鎮座した生け花?フラワーアレンジメントは

綺麗だなと目は止めても、

私は鎌倉の小さなお寺の御不浄の脇に咲いている小さな花の方に心惹かれるものがある。

美プラス慈しみの心かと思う。

鎌倉のお寺はどこも自然の花を大切にしている。

さりげなく活けられた花も、庭に咲いているものの延長線上であり、

特別に用意しましたみたいな衒いを感じさせない風情がある。

そんな心を生み出した義政の心に、混沌と渦巻くものがなんであったかがまったく掴めない。

それが気違いという意味で、司馬遼太郎もドナルドキーンも決して蔑んでの言葉ではない。

社会が、個人の表現にあまり干渉(禁止)しすぎると、深みがなくなるような気がする。

気違いには気違いの良さがある。それだって事実です。

将軍でありながら、下々の者まで公平に見る目を持ち、また時には平気で見捨て、

サディスティックな面、マゾヒズムな面も持ち併せ、毎日ブレブレの日々を送る。

そんな中から美しい心が生まれ、日本人の心を今も癒し続けている。

気違いというなら、室町時代天皇、将軍から庶民まで、皆おかしかったのではないかと、

室町時代は、何が起こってるのか私は今も、把握出来ない。

応仁の乱というのは、革命意識もなければ勝ち負けもない変な戦争だったけれど、

後世から少し色のついたフィルターをかけて見れば、あれは一種の自然発生的な革命の戦争じゃなかったのか。

リーダーも何もいない。

そして革命の思想も意識もない。

ところが、ごく生態史観的にいえば、あれが一種の革命作用をなしたのじゃないか。

(中略)

どうもあの時代は、義政の人物論なんかするとかえって逃げてしまうんで、

むしろ応仁の乱でわけわからずに走り回っていた人間どもが、

あとの歴史に及ぼした影響を考えた方がおもしろいかもしれません。

司馬遼太郎の考察すごい。

そう言われると、すごくわかりやすい(笑)

日本人の戦いの歴史は裏工作(裏切り)だという。

日本人の忠義に対する考え方は、肉体の範囲内で、その上に対するものはそれほど無いという。

要は、自分の直のお殿様へは熱い忠義はもっているけど、将軍やら天皇は知らないよ。

程度の忠義ということか。

だから関ヶ原でも、他の戦いでも、裏切りにより勝敗が決まる。

他の国は宗教という絶対的なものがあるので、

今日の味方が明日には敵になるということがない。

味方は何千年たっても味方であり、敵は何千年たっても敵である。

紀元前の頃から変わらぬ戦いを今も続けている。

室町時代のあっけらかんとした身の代わりようが日本人の姿なのかも。

日本人はあっけらかんとしていると言われる。絶対をもたないものの宿命かな。

私は半沢直樹?見てないからどういう意味で使われいるのかはわからないけど、

『やられたら倍返し?』は、アメリカとイスラムの考え方ですね。

日本人には元々無いでしょ。

赤穂浪士みても倍にして返すなんてものはない。

恨むは吉良のみで仇討ちさえ済めば、あとは自害あるのみ。

『耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・・』

その言葉にこめられた日本人の思いは胸につまるものがある。

美意識で生きてきた日本人にやられれたら倍返しの発想は無かった。

やられたら倍返しは9.11以降のアメリカとイスラムそのものに思う。

彼等はそれを聖戦といい、終わりのない戦いを今も続けている。