悠久の片隅

日々の記録

クライスト短編集

チリの地震

人災が天災を生み、天災が人災を生んだのか?

いや、そういうことじゃない。

愛し合っている2人が身分違いの為、引き裂かれ、女性(ジョゼフ)は修道院に入れられてしまう。

それでも2人は密会をし、ジョゼフは妊娠、不道徳ということで、今、まさに斬首刑にされようとしている。

本来は火あぶりのところを、斬首刑になったのだから多少の温情はあったとしても、

この時代(1647年)、神へ背く行為への刑罰は厳しい。

別の牢獄に捕まっている男性(ジェローニモ)はその時、自ら首をくくり、

この悲劇を終わりにしようとしていた。

まさにその時、地震は起こった、町は崩壊。

斬首刑に物見遊山でいた町の多くの人たちは亡くなり、

彼女をかばってくれたシスターも亡くなり、裁いた側の人間も亡くなる。

そして本来死ぬはずだったジョゼフとジェローニモ、そして赤ちゃんは奇跡的に助かる。

この大地震で生き残った人たちは、まるで全員が1つの家族になったかのように助け合い、慰め合い、

罪人であった2人にも好意的に接してくれた。

2人は、あの時点で一切は赦されたのだと、これが神の裁きの結果なのだと神に感謝する。

そうして、教会では、新たなる希望を祈るミサが執り行われることになり、2人も参加する。

司教は今生きていることへの感謝の言葉を神に捧げると共に、次第に、

この地震は町の風紀の乱れによる神の怒りであって、話がこの若い2人のことに及ぶと、

さっきまで、寛容であった群衆はこの2人に牙を向き、2人はむごたらしい殺され方をしてしまう。


現代ならこんなことで、死刑になんてならない。

どんな立場であろうと、未婚の2人が子供を作ってしまったことで死刑なんてありえない。

いや、現代でも死刑になる国もあるかもしれないけど、

結局、そういうことなのだ。

自分たちが常識と思っていること、正しいと思っていることなど、自分で決めたのでも、考えたことでもない。

ほとんどのことは、物心ついた時に『そうあるもの』としてすでに自分の前に横たわっていて、

『そうあるもの』の確かさなど、状況、場所、時代でまったく異なってしまう。

でも、だからといって、この社会で生きている限り、現在のルールを無視していいものでもない。

ルールに従うことで社会は成り立っている。

あとになってみれば、この2人を殺したのは、一般市民ということになる。

その怒りの元は不幸な大地震であって、この2人と因果関係などあるはずもない。

因果関係を作ってしまうのは、人間の脳内だ。

この場合は、キリスト教という洗脳で、洗脳された方が悪いとも言い難いものがある。

すべてが赦されたと思ってしまったのも、状況が変わったことによる2人の脳内だ。

奇跡的に助かったこと、そうしてまた2人が会えたこと、町の人々がまるで天使のように見えたことで、

本来の自分たちの立場が見えなくなってしまった。

地震が起こったこと。これは紛れもない事実で、何十年たってもそれは無かったということにはならない。

事実は変えられない。

でも人の脳内は、事実が変われば、変わってしまう。

ジェロニモは死のうとしていたのに、地震により命が助かったとわかった瞬間、

今なお生を授かっていることを神に感謝する。

ジョゼフの斬首刑の見物を楽しもうとしていた人たちは、奇跡的に助かったことで、寛容な気持ちになるが、

司教の熱のこもった言葉にうなされるかのように殺人鬼に変貌してしまう。

人の脳内は、今日イエスでも明日はノーということがあっても、なんの不思議もない。

でも、それでは人は何を拠り所にして生きていけばよいのかわからない。

お互いが信じ合い、慈しみ合い、そうして絶対変えられない現実と向き合って生きていくほかないのに、

それが、とてもとても難しい。

ほんのちょっとの切欠で、人と人との関係は崩れ去ってしまう。

結局、状況により人間は変わりゆくものでしかないということなのか。

唯一変わらなかったドン・フェルナンド。

彼もまた、この騒動で、ジョゼフとジェロニモをかばい、彼等の赤ちゃんの代わりに、

自分の赤ちゃんを無残にも殺されてしまった。

赤ちゃんの足を掴まれ、ぐるぐる回され、教会の柱に頭を打ち付けられ、脳みそを流しながら赤ちゃんは亡くなった。

こんな凄惨な場面を筆者は淡々と描く。

そしてフェルナンドは、生き残ったジョゼフとジェローニモの子を自分の子として育てる決心をする。

この赤ちゃんの為に、自分の赤ちゃんが殺されてしまったと、とるか、

ここに不幸な赤ん坊がいるという事実をとるか。

それも脳内のこと。

この場面は、三浦綾子の氷点を思い起こさせる。

氷点はくり返し、くり返し、何度読んだかわからない。


群衆は、2人を殺めたことで、スカっとしたのかもしれない。

これこそが神の裁き、これこそが正義と、人々は安心し眠りについたかもしれない。

この人たちが悪いのかといえば、

悪いは悪いが、それが人間の性で、そこに逆らって生きることの方が難しい。

人は弱い。弱いから宗教にすがりつく。

弱いから、集団に従ってしまう。

人間の弱さからの過ちを糾弾出来るほど、だれひとり強くない。

人間の掟に従い、掟に生きたら、こうなった・・・