悠久の片隅

日々の記録

クライスト短編集

『チリの地震』ほか7作品の短編集。

最小限の情景のみを描くことで、緊迫感がある。

解説を読んだら、クライストの作品について、このように書かれていた。

いずれも叙事詩的な物語が、カタクリスム(天変地異)やカタストロフ(ペスト、火災、植民地暴動)を

背景にしていること、

人物たち一人ひとりはあくまで彫刻的な硬質の輪郭において際立っているのに、

彼らの間には接触不能の透明な薄膜が張られでもしたように言葉が通わず、

ために人間関係がたえず猜疑と不信の非伝導物質にさえぎられて悲劇の淵に引き込まれてゆくこと、

である。

これは次の作品『聖ドミンゴ島の婚約』にもよく表されている。

背景は、植民地暴動。

黒人による白人への報復が起こっている町で、

混血のトーニは、白人将校をかくまう。

二人は一夜にして愛し合い、結婚を誓う。

が、この家の主である凶暴な黒人が突然帰ってきてしまった。

トーニの咄嗟の機転と命懸けの救出劇で、将校は命拾いをするが、

将校は、トーニが裏切ったものと勘違いをし、撃ち殺してしまう。

トーニの最後の言葉「あなたには、私を疑って欲しくなかったのに!」

その後、他の者から真実を聞かされた将校は自らもピストルを咥え、命を断つ。

ただ一夜、愛を誓った相手を、この状況下で無条件に信じるほうが難しい。


この物語は、

この家の主の黒人が、自分の主人(白人)を裏切る(殺す)ところから始まる。

信頼され、これ以上ないほど大事にされていたにもかかわらず、殺した。

個人的な恨みでなく、報復の血に駆り立てられるように、白人だから殺した・・・そういうことに思う。

そして、トーニも「自分を疑って欲しくなかった」と言いながら、自分の母親を裏切っている。

母親を愛していなかったわけではない。状況が、人をそうさせた。

信じるというのは、

取り出して見せられる物質がどこにもない。

あなたを愛している、

あなたを信じている、

の思いは、『疑うこと』の存在が底に敷き詰められてある。

信じることと疑うことは、一緒でなければ存在しないのかもしれない。

理論的には、愛していれば信じられるはずなのだけど、

その理論に欠けているものがある。

世界で一番愛していることには、偽りはない。

ただ、それは自分というものがあってのこと。

お腹すいているライオンが「どっちかひとりを食べさせろ」と言ったら、

私は、主人だったり、恋人だったりを差し出しす。

自分の存在、自分の意志を偽ることは出来ない。

これが、母子だったら、「子どもだけは、どうか助けてください。」

と、なったりもするのだろうけど、

それは、

やはり自分自身が絶対的に耐えられないからで、

彼を差し出すのも、子ども助けるのもどちらも自分本位で、

誰にでも、自分という『0』番目の存在があって、

いくら一番愛する者がいても、『0番目の自分』を無視することは出来ないし、

自分を優先させることに対して、誰も異議は唱えれらないと思う。

1番はどこまでいっても1番で、0番にはなれない。

疑いたくはないが、人間は状況により自分本位なってしまうことを誰もがわかっていて、

愛と、信じることは、元々イコールにならないものなのだと思う。

そんな悲しい性が愛し合う2人を不幸にしてしまった・・・

誰もいけないわけじゃない。

人間のもつ悲しさがこの不幸を招いてしまった。

分かり合えるのも人間だけど、

分かり合えているつもりで、分かり合えていないのも人間。

クライストは、そんな人間の悲しい性を書いているんだなぁ。