悠久の片隅

日々の記録

猿の惑星 創世記

2本続けてみると、

創世記が、[1]をリスペクトし、さらにもうひとつ掘り下げている感じがみてとれる。

猿の惑星の著者(フランス人)は、第二次世界大戦で日本の捕虜になった。

その逆転現象から猿の惑星の物語を思いついたとされている。

日本人が欧米人に立ち向かうというのは、SFになりうるほどのありえない現象だったというのが、

あの戦争の側面・・・でもあったかと思う。

アジアやアフリカを植民地として支配していくことになんの違和感もなかった欧米人。

フランスはいまだに帝国主義であったことに、ごめんなさいを言っていない。

フランスにとっては帝国主義も『自由精神』であり、そこを否定すると、

積み上げてきたお国の精神まで違ってきてしまうのかもしれない。

謝らないところは、謝らない。

それもまたアイデンティティーなのだと思う。

戦後の日本の経済発展はリアル猿の逆襲にも思えるけど、

でも我を忘れて発展した結果、今は問題山積、自分たちのしてきたことで沈没しかけている。

上を目指すのは誰でも当然のことではあるけど、

たどり着いたその先に人は何を求めているのか・・・

猿の惑星に話を戻すと、

創世記は、母の胎内を通し遺伝子を変えられてしまったシーザー(青年チンパンジー)が

知能の高さ故に、自我にめざめ、「自分はなんなの?」と人間に問いかける。

シーザーが、愛する主人と離れ、猿の世界で革命を起こし、自分の居場所を見つけてゆくストーリーは、

あまりに切ない。

これは、人間のエゴによって起きた。

物欲や金欲から発生する人間のエゴなら、倫理観で単純に否定することが出来る。

でも、

家族を守りたい、愛する人を助けたい、その愛情から生まれるエゴ。

これは単純に否定するわけにはいかない。

愛する者を守るために攻撃的になるのもまた本能なのだ。

遺伝子治療によって、救われる人間の命。

それによって、他の生物の運命、あるいは、未来の人類の存続さえ、危ういものとしてしまうかもしれない。

それでも、今出来る最善を尽くすのは、それがエゴであろうと当然の人間の思いだし、

将来の人類を慮って、科学の進歩を止めてしまったら、それだってエゴに思う。

愛とエゴは表裏一体で、

誰かの幸せは誰かの不幸の上に成り立ち、

誰かの喜びは、誰かの悲しみによって得られる。

私たちはそんな時空に生き、答えの出ないまま、それでも前に進んでいくしかない。

この映画にあるように

アルツハイマーの薬が記憶力や知力を高める成果は、もう現実にあらわれているようなことを読んだ気がする。

頭の良くなる薬・・・

頭が良くなりたい、記憶力がよくなりたい。

それは常に思う。

もしそれが薬で叶えられたとしたら、

いや、そんなことがあって良いことないような気もするけど、

今度は人間の他の能力が衰えていくようにも思う。

猿の惑星[1]は、SFとして面白かった。

でも猿の惑星(創世記)はSFのジャンルかもしれないけど、

それほど遠いSFでは無くなっている。

シーザー(チンパンジー)がしゃべる場面があるけど、

これも無いとは言いきれない。

話せるかどうかは、声帯の問題で、声帯は人間のようにスクっと立つようになると、

言葉としての声が出るらしい。

シーザーを見ると、かなり人間の立ち方に近いように思う。

猿が今まだ進化の途中で、この先、人間とまったく同じ姿形になっていけば、話すようになることだって

あるかもしれない。

話すようになれば、猿同士知識が積み重なっていき、

人間となんら変わりなくなる可能性だってないとは言いきれない。

この作品は、ただのSFとしてでなく、現実に沿わせて、

そして今人間が、待ったなしで遺伝子の研究を重ねていることへの問いかけをしている。

シーザーが、保護施設の檻の中で、人間との生活を思いだして、壁に窓枠を描くシーンはあまりに切ない。

最初から最後までシーザーに引き込まれてしまう感動の作品です。

創世記をみたあとに[1]をみると、テンポの違いに驚く。

猿が出てくるまでに30分(笑)

以前見たときはスローな印象など無かったので、私の中の感覚が変わってしまったということになる。

今日は[2][3]借りてきた。楽しみです。