悠久の片隅

日々の記録

壮大な物語 猿の惑星

猿の惑星シリーズ、全部見終わった。7本かな。

この2作品は初めて見た。

前作を踏襲しながら良く作ってあると思う。

1の評価が良くて、それ以降の作品はずいぶんヒドイ言われようだけど、

なんでかなー。私は内容が、すごく良いと思うのだけど。

シリーズを一気に通して見たから、思い入れが強くなってしまったのかも。

予算があれば「総制作費○億、壮大なスケールで描くスペクタルうんたらかんたら。」

となるのだろうけど、低予算だったらしく、惑星と名乗るほどのスケールはない。

町内一周ほどのスケールでおくる猿の惑星です(笑)

でも、質素だから映像にとらわれず、描きたいことがストレートに伝わってくる。

『最後の猿の惑星』は、原題『BATTLE FOR THE PLANET OF THE APES』

猿の惑星は、輪廻ではないけど、繰り返される時間を描いているので『最後』という言葉が適してるとは思えない。

いったい何をもって最後と?

SFという夢ある世界に『最後』という現実を持ち込んでしまう訳者さんは、

猿の惑星』という作品を愛しているのかな。商品として見ているのではないかな。

その『最後の猿の惑星』では、猿が相対性理論を語っちゃって、なかなか小ワザが利いてる。

それが新猿の惑星(西暦3000年)では、猿が宇宙船を作れて、時間移動までしてしまうことに繋がるんだね。

それぞれの作品が前作品と呼応している計算がすごくいい。

多分、大事なことは、今すぐ答えなんて出なくて、

私も死んじゃって、昭和や平成なんて時代が忘れ去られた頃に

ようやく何か見えてきたりするんじゃないかな。

そういう部分がこの映画はとても生かされている。

最後の猿の惑星の時代は、

「猿が猿を殺してはいけない」というのが一番の神聖な掟とされている。

これは人間社会から学んだことで、猿社会全体に浸透している。

でもシーザーは自分の息子を殺した相手を、最後は追い詰め死なせてしまう。

結局、猿も人間の辿った足跡を辿ってしまう。

「復讐のためなら殺してもよいのか?」とシーザーは問うのだけど、

それに対しては「その答えは未来にある・・・」とだけ。

武器管理者は、武器をすべて焼き払おうと提案するけど、

「今はまだその時ではない。待とう・・・」と。

胸にズドドーンとくるセリフです。

解決を早く望む気持ちはわかる。でも・・・・・

そのためには、その時期を待たなければならない。

銃社会アメリカを象徴している。

日本的視野で言えば、アメリカは世界のリーダーとして銃を手放し、核を手放し、他国の手本となるべき。

ってとこなのだろうけど、

現実問題、今アメリカが銃や核を手放したら、混乱するだろうし、アメリカの混乱は世界の混乱になる。

いくら理想であっても、日本が出来たからって、アメリカに同じように持ち込もうとするのは無理がある。

それは地理的なこと、歴史的なこと、人種、宗教が多種にわたることなど、

様々なアメリカの背景があって、

彼等にとって、武器を身につけ、自ら身を守ることは、彼らの誇りでもある。

手放すものが『物理的なもの』だけなら、ことは容易いのだけど、

銃を手放すことは、誇りを手放すことでもあるから、ややこしい。

今までアメリカが他国にしてきたことは、そういうことだ。

アメリカ的理想を他国へも理想論として押し付けた。

日本だって今もアメリカの呪縛から解き放たれてはいない。

日本人は本来好戦的な民族ではない。

聖徳太子の頃から『和をもって』が信条だし、

だから、争うよりは談合してきちゃったわけで。お話し合いでカタをつけたい方に思う。

秘密保護法1つで、すわ帝国主義!なんかになるような民族でないことは

日本人が一番よくわかっているはずなのに。

もう少し、自分たちに自信をもってもよいのではないかと思う。

本当に日本の軍国主義を怖がっているのは日本じゃなくアメリカだと思う。

日本人の一途さが怖いんじゃないかな。


ラストシーン、人間の子どもと猿の子どもが一緒に授業を受けている。

後ろで見守るシーザーの銅像。

その目からは、涙が流れていました。