「学ぶこと、学び続けること」にはどんな意味があるのか
今朝は足がかなり腫れてて痛かった(>_<)
夜中のトイレとか、朝起きるときの一歩とか、ホント毎回覚悟がいる。
いきなりは立てないし、いきなりは歩けない。
歩くにしても踵でソロリソロリと。
それでも仕事中10時間動きっぱなしは痛くもないし、苦もないのだから不思議。
足が棒になるということも、足に疲れを感じることも無い。
筋肉は鍛えられても、関節は鍛えることが出来ないからなー。
ただ、10時間集中を切らさないように仕事していると、やっぱり脳は疲れる。
この前も仕事終わって家に着いて、しばらく運転席から降りられないでいた。
早朝の薄紫色の静寂の中、
キーンと耳鳴りだけが響き渡る。
思考からも雑多の音からも解放され、安堵と脱力で、脳がからっぽなのか。
動けない。
家に入れば、またアレをしなきゃ、コレをしなきゃと、色々が待っている。
無意識のうちにそんなことが、足止めになっているのかも。
思考停止。
7,8分くらいかな。ぼーっとして、ようやく車のドアを開け外にでると、耳鳴りもやんだ。
教養については、以前に読んだこちらの本が面白かった。
今まで読んだ池上彰の著書と、やり直し教養講座で読んだ内容と被っている部分が多い。
多分、高校生、大学生向けに書かれていて、
私が今さら読むことほうが違っているのかもしれないですけど。
でも、大切なことは何べん読んでも損はないですから。
教養とはなにか。
そこを考えない大人が教育だの知識だのと言ったところで、
それはあまりに短絡的に思う。
『いろんなタイプの大学で教えた経験からいえば、偏差値の違いは集中力の違いでもあるような気がします。』
『つまり、聴いていて絵が自然に思い浮かび、なおかつ論理が通っていると、
ストンと腹に落ちる、それが本当の意味で伝える力なのだ、という話しです。』
『しかし、読み終えて、「すごいな」だけで終わってはいけないなとも思いました。
手を動かして、ちょっと整理する時間を持つことは大事だなと、いま改めて思います。』
『すぐ役に立つことは、すぐ役に立たなくなる、ことが多いのです。
すぐには役に立たないけれども、あるいは、一見役に立ちそうにないけれども、
長い目で見ると、心の栄養になったり、自分を高めたり、自分の世界を広げてくれる本もあります。
そういう本が教養にとっては大事であり、生きていく上でも大事なのではないかと私は思うのです。』
『とりわけウェルズリーカレッジでは、「社会に出て役に立ちすぎることは敢えて教えない」
という徹底した姿勢でした。教養としての経済学は教えるが、
すぐに役に立つビジネス(経営)は教えない。
それを学びたかったら、大学院のビジネス・スクールに行きなさい、というわけです。
同じように、サイエンス(科学)は教えるが、テクノロジー(技術)は教えない。
学びたかったら、MITの大学院へ行きなさい、というわけです。』
『アメリカと日本の政治家を比べると、教養に関しては完敗だ。オバマ大統領にしても、
ヒラリー・クリントンにしても、大学時代にみっちりリベラルアーツも勉強しているから、
相当な教養の持ち主であり、国際社会では、そんな教養あふれる人たちと伍していかなければならない。』
『私は、教養を持つということは「よりよく生きる」ということではないか、と思うのです。』