悠久の片隅

日々の記録

氷川清話

21:00にバイト上がった。

3時間しか働いてない。

もっと働きたいような、

この程度で十分のような。

来年はどうするか、決めかねてる・・・

まぁ年内はゆっくりする(*^ー^)ノ

一緒に上がった子と居酒屋へ行った。

彼女は16歳

16歳だけど、大人な感性の子。

これからいっぱい恋するんだろうな~

私なんて恋は忘却の彼方

「あれ?好きって、どういうんだっけ?」って思わず16歳の彼女に聞いちゃいました。

恋する気持ちって頭で考えるとさっぱりわからない。

氷川清話 (講談社学術文庫)/勝 海舟

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読了。

まぁ、こんな本読んでいるのだから、恋とは縁遠いね(笑)

勝海舟なんて、あまりに教科書や本の中の人で、歴史上の人物それ以外何者でもなかったけど、

この『氷川清話』は、勝海舟がやったことでなく、対話での勝海舟の言葉のみ。

やったことは、第三者視点だけど、

言ったことというのは、本人でしかないのだから、血の通った生きた勝海舟が感じられる。

深く・・・深く・・・考えさせられます。

どれだけ日本中から謗りを受けたか、日本全国民を敵に回してもそれが日本のためと、

誠心誠意と胆力で自分の信じるままを成し遂げた勝海舟には

その後(御一新後)の新政府のやり方をどれほど憂いていたか。

「改革とは、まず自分を改革することにある。」

話が大風呂敷なところも感じられて、

語っていることのすべてを鵜のみにするわけにもいかないけど、

それも含めて、この本はとてもとても興味深い。

勝海舟の中国に対する見方になるほど、と頷いてしまう。

中国は国家ではないという。

支那人は、帝王が代わろうが、敵国が来り国を取ろうが、殆んど馬耳東風で、

はあ帝王が代わったのか、はあ日本が来て、我国を取ったのか、などといつて平気でゐる。

風の吹いた程も感ぜぬ。感ぜぬも道理だ。

一つの帝室が亡んで、他の帝室が代わろうが、誰が来て国を取ろうが、

一体の社会は、依然として旧態を存して居るのだからノー。

国家の一興一亡は、象の身体を蚊か虻が刺すくらゐにしか感じないのだ。

ともあれ、日本人もあまり戦争に勝つたなどと威張つて居ると、後で大変な目にあふヨ。

勝海舟は、支那と戦うことの無意味さを唱える。

ホントにね、ソ連と中国が核戦争になるか!という時に

「中国は5億人死んでもまだ3億人いるから大丈夫」と言った毛沢東

勝海舟は、日清戦争に反対していた。

講和談判の時かヱ、

あの時はおれの塾に居た陸奥宗光外務大臣として衝に当つて居つた関係もあり、

かたがた当局へ一書を呈して注意もしたわけサ。

おれの意見は日本は朝鮮の独立保護のために戦つたのだから土地は寸尺も取るべからず。

その代り沢山に償金をとる事が肝要だ。

もつともその償金の使途は支那の鉄道を敷設するに限る。

つまり支那から取った償金で支那の交通の便をはかつてやる。

支那は必ず喜んでこれに応ずるサ。

今日にしてこの敷設をなさざれば

他日一哩(マイル)の鉄道を布く事も必ず欧米の干渉を受くる事となるよ。

また何億といふ償金が日本に来た時は、軽薄な日本人の事、必ずや有頂天になって

いたづらに奢侈(しゃし)に耽(ふけ)り、国が弱くなるばかりだよ。

ところがこの事も、お天狗の連中から一笑に付せられて、御採用がかなわなかったわけサ。

戦争に勝つても、国内の奢り、外国からは疾(にく)まれ、経済戦では敗北し、八方塞りだよ。

戦争などといふやつは決して容易の事でするものでないよ。

幕府の末路などを御覧ナ。

長州征伐などと馬鹿な事をやったから、金は使ふ、結局幕府の運命を縮めたわけサ。

日本の奴らは支那が弱い弱いと言ふが、ソレは当り前だよ。

アレは李鴻章の関係の兵が動いたまでサ。

恐らく支那人日清戦争のある事さへ知らぬ人があるくらいサ。

日清戦争を避けて通ることは出来たのか。

歴史にたらればを持ち出してもしょうがないけど、

日清日露から始まって、太平洋戦争まで、事実上避けられたかどうかはわからないけど、

勝海舟の心配していたとおりになったなあ。

一消一長は、世の常だから、世間は連戦連勝なんぞと狂喜し居れど、しかし、

いつかはまた逆襲に出会はなければなるまいから、今からその時の覚悟が大切だヨ。

その場合になつて、わいわいいつても仕方がないサ。

今日の趨勢を察すると、逆運にめぐりあふのもあまり遠くはあるまいヨ。

しかし、今の人はたいてい、先輩が命がけでやつた仕事のお陰で、

顕要の地位を占めて居るのだから、

一度は大危難の局に当たつて試験を受けるのが順序だらうヨ。

勝海舟は武士道が廃れていくのも困ったことではあるが、当然のことだと予見をしていた。

武士は上から禄をもらうのみで、田を耕すことも、物を売ることもしない。

何もしない食っていける。

なので、厭が応にも、書物でも読んで忠義だ、なんだとわいのわいの言うしかなかった。

封建制度あっての武士道で、武士道だけが精神として生き残るというのは、難しいということだ。

封建制度というのは国の中での自分の役割りであって、なかなか面白いな。

徳川氏の政治の極意は、よく民を親しみ、その実情に適応する政治を布くに在ったのだ。

そしてその重んずるところは、その人にあるので、法律規則などには、あまり重きをおかなかった。」

「昔、幕府が、種々の規則を出す時には、人民に分かり易い文字を、成るべく用ゐるやうにして、

掛りの人は、始終この事に心掛けて居た。しかるに、今はその反対で、

成るべくむつかしい文字を用ゐるやうになって、なかなか通常の人には分からない」

「天災とは言ひながら、東北の津波は酷いではないか。

政府の役人は、どんなことをして手宛をして居るか、法律でござい、規則でございと、

平生やかましく言ひ立て居る癖に、この様な時には口で言ふ程に、何事も出来ないのを、

おれは実に歯痒く思ふよ。(中略)

どこまでも住み慣れたる土地に居た者を、その土地に逃がさずにチャンと住まはしておくのが仁政と言ふものだよ。」

明治より、平成の世より、徳川の方が、人民に対する配慮は、行き届いていたようです。

江戸城受渡しの時、官軍の方からは、予想通り西郷が来るといふものだから、

おれは安心して寝て居たよ。

さうするとみなの者は、この国事多難の際に、勝の気楽には困るといつて、

呟(つぶや)いて居た様子だったが、

なに対手(あいて)が西郷だから、無茶な事をする気遣ひはないと思つて、談判の時にも、

おれは慾は言はなかつた。

ただ、幕臣が餓ゑるのも気の毒だから、それだけは、頼むぜといったばかりだった。

それに西郷は、七十万石くれると向ふから言つたよ。

(中略)

維新の頃には、妻子までもおれには不平だつたヨ。

広い天下におれに賛成するものは一人もなかつたけれども

-山岡や一翁には、後から少し分かったやうであったが-

おれは常に世の中には道といふものがあると思って、楽しんで居た。」

辛口コメンテーターの勝海舟が、懐かしみ、称えてやまないのが西郷隆盛

江戸城受渡しの時(勝海舟は、明け渡しとは言わないんだね^^;)、江戸は殺気立ってた。

国家の体制が変わるのだから、倒す方、倒される方、いつ火花が散るとも限らない。

江戸が焦土と化すかもわからない非常な緊迫感の中、

受渡し式が始まると、西郷隆盛は居眠りを始めた。

式が終わり、皆が帰り支度を始めてもコックリ、コックリ。

「皆さんお帰りになられましたよ」と、揺り起こしたところ、悠然と帰って行ったという。

それまでの日々、寝る間もなく奔走していたのでしょう。

勝海舟は西郷のそんなとこが大好きのようです。

アラブの春をみても、国家の体制が変わる時は、国家の力が弱く、

無法地帯になる可能性がある。

江戸100万人の命がかかっている。

そんな諸々を西郷は、

「どうか宜しくお願い申します、後の処置は、勝さんが、何とかなさるだらう」といつて、

江戸を去ってしまった。

この漠然たる「だらう」にはおれも閉口した、実に閉口したヨ。

これがもし大久保なら、これはかく、あれはかく、とそれぞれ談判しておくだらうに、

さりとはあまりに漠然ではないか。

しかし考へて見ると、西郷と大久保の優劣は、ここにあるのだヨ。

西郷の天分が極めて高い所以は、実にここにあるのだヨ。

「根気が強ければ、敵も遂には閉口して、味方になってしまふものだ」

人には天分があり、出来ること、出来ないこと、それぞれある。

その場合に於いて、敵も味方もない。

出すぎてもいけない、全うしないのもいけない。

どの時代も人物はいる。

それをどう使えるかで国家、あるいは、世界の運命はどうにでも変わってゆくのだと思う。