悠久の片隅

日々の記録

司馬遼太郎全講演

司馬遼太郎全講演 (1) (朝日文庫)/司馬 遼太郎

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本ばかり読んでいます。

司馬遼太郎は優しい。感覚の優しさというか。

『人間はかわいらしい生き物ですね。』

こんなことばに思わず微笑む。

私が司馬遼太郎が好きなのは、優しさに触れられるから。

私までちょっと優しくなれる気がする。

優しい人というのは、優しい人に敏感だと思う。

吉田松陰という人は、ものすごく明るい人で、

ちょっと不思議なくらい人を疑うことを知らない天真爛漫なひとだそうです。

私は、長州藩は苦手です。

勝手に行動して、迷惑かけて、

気づけば自分たちが天下を取ってしまったようなイメージがあって、いかにも男性的なのです。

女性は会津の悲劇の方に心を寄せやすい生き物のように思います。

でも、この本を読むと、

長州藩は他の300諸藩と比べて、際立った優しさをもつ藩のようです。

その中でも吉田松陰のもつ天性の優しさ。これはちょっと、いや、かなり意外でした。

食わず嫌いを改めないといけないです。

明るく優しい環境の中で育まれると、人は優しくなるのでしょうね。

松下村塾からあれだけの優れた人材が生まれたというのも、風土としての優しさが基にある。

『心が優しくないと人の欠点がよく目につく。頭がよければよいほど目につく。

ところが、そういう人は人間として他の人間に影響を与えることはできないのです。

他の人間に対して影響を与えることの出来る人は、とびきり優しい心を持っている人ですね。

松陰がそういう人でした。』

この世に絶対的なるものはないのに、人間は絶対的なるものを求め続けてきた。

その絶対なるものが、宗教であり、思想であり。

『私に言わせればですよ、マルクスも大うそであり、吉田松陰の思想も大うそであります。』

(笑)

司馬遼太郎にそう言ってもらえると、ホっとする。

この世に絶対はない。

松陰の絶対主義思想によると、

天皇が日本の主であって、この天皇を中心に日本国を作り上げなければいけない。

天皇は神である。

幕府を論理の上で否定し、それがのちに長州藩の革命イデオロギーとなってゆく。

これは天皇が神であるというフィクションの上に成り立った思想で、

松陰自身も自分のおかしさは気づいていて、だから自分を「狂」とし、

「狂」の中で死んでいった・・・。

松陰の書いたものを読むと、非常に文学的で科学的な見方をするひとだという。

そういう人が絶対主義者というのが、とても不思議な感じがするけど。

フィクションは現実化しにくいものであり、無理やりに現実化させると無理が起こる。

つまり、フィクションを現実化するには、目の前にある現実の方を殺すことになる。

イスラム国のやっていることも、そうなのでしょうね。

今の日本の形は、大元は松陰の考え方なのだと思うけど、天皇は神ではない。

天皇=神の考えは日本には定着しなかった。

誰もがその無理、矛盾に気が付いた。

日本という国は、『原理』というものが無い国だそうです。

原理が無いというのは、世界でも珍しい国で、

中国には儒教というものがある。儒教で生きている。

ヨーロッパにはキリスト教、アラブにはイスラム教だとか、

他の国はみな原理がある。

日本にもイエズス会は来たけど、結局日本にキリスト教が浸透することはなかった。

イスラム教も、実はイスラムはアジアに多いのですが、イスラム教も入ってこなかった。

日本は最初中国をお手本に中国から儒教や江戸時代は朱子学を取り入れたけど、

結局は、日本人はクリスマスをやったり、律令という制度を取り入れてはみたけど、

それは単なる洋服で、それらの原理が皮膚にはなっていない。

イスラムのパイロットは、お祈りの時間になると操縦席から降りて、お祈りを始めるという。

ユダヤ人が2000年ぶりだか3000年ぶりだかわからないけど、イスラムの地に戻ってきて

「ここは私たちの国です」と宣言してパレスチナの地に国を作ってしまった。

皆、神というフィクションを信じているから。

中国で汚職が無くならないのも、中国は公より、身内に対する孝が優先されるから。

身内からたかれたら、施すのが当たり前。

どこもみんな、そのことを空気と同じで当たり前のことと思っている。

反対か。当たり前すぎて、空気以上に何も感じていない。

何も感じていないというのが、原理で、この人たちを火葬したら、

最後に『儒教』とか『イスラム』とか、灰の中から出てきそうなくらい、そのもので出来ている。

日本にはそういう普遍性が無いという。

日本にもマルクス主義とか儒教とか入りそうにはなるけれど、

一時のブームがいつものことで、定着はしない。

井沢元彦が言ってた。

日本はビーフカレーの国だと。

インドヒンズー教では牛は神の使いだから牛肉は食べない。

だからビーフカレーというのはインドでは、ありえない食べ物で、

日本という国は、他からの文化を独自に展開をせてしまうビーフカレーな国だと。

日本の文化はビーフカレーだと(笑)

仏教もインドから中国を経てやってきたものだけど、宗派を道徳として生きている人はいないし。

神道はあるけど、原理というほど頑ななものではない。

というより、原理というほどに骨にまで浸透している人はそうはいない。

宗教も思想も壮大なフィクションで、そのフィクションを通すには、現実を殺してしまう他ない。

それぞれの原理が違うから諍いが起こる。

『日本人はあっけらかんとしている』というのは、原理が無いからでしょうね。

今世界で起きていることが、領土問題とか宗教問題とかいうのは見た目上で、原理の相違。

中国は中華思想で出来ているから、宇宙の中心が中国皇帝にある。

天下というと、天の意志を受けた中国皇帝のみが言うことを許されている。

それが中国人の思想で、勝手に天皇とか天下とか言っちゃってる日本は、野蛮な国。

野蛮以外なにものでもない。それが骨の髄にまでゆきわたっている。

新羅朝鮮半島)は巨大中国にものすごく配慮し、より厳格な儒教を強いた。

それが自分たちを守る手段で、秩序というものであった。それなのに、日本ときたら(笑)

礼節に欠ける。と言いたい気持ちもわかります。

教科書にもあった日本が隋に送った国書。

「太陽が昇る国の天子が太陽が没する天子に手紙を送ります。お元気ですか。」

えっ・・・お元気ですか。と続いたのか?!なんかかわいい!

思わず笑ってしまったけど、

これが礼節に欠ける野蛮人ってことになったのでしょうね。

「そんな昔の時代のこといつまで怒ってるのよ!」と言ったところで、原理というものは理屈でなくそういうもの。

何千年たとうと、日本が中国の下につかない限りは、様々な理屈をつけて日本はずっと憎まれ続けるでしょう。

中国が変わらないかな~と思ったところで、

これまた変わらないのが中国ですからね。

変わらないことが文明、普遍的であることが中国なのですから、こちらが口をはさめることではない。

日本にいると、普遍がよくわからないけど。

もし、朝鮮半島が中国に対して日本のような態度でいたら、国はとっくに無いですから、

日本はまだ良かったね。と、思う他ない。

国や民族により原理は違えど、皆原理で出来ている。でも日本にはない。

『日本人は国際的には異質な集団である。』

このことを心得ておいておく必要がある