悠久の片隅

日々の記録

儒教

新装版 歴史の交差路にて 日本・中国・朝鮮 (講談社文庫)/司馬 遼太郎

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司馬『「中華」は、西洋概念における領土思想というより、中国だけが持っている文明主義のことばですね。

文明主義的な版図であることと、ヨーロッパ風の領土思想とは、歴史の性質がひじょうにちがうので、これは近代(清末)になってからたいへんな混乱と相克を生む。』

金『内部的には朝鮮自体が持っている武に対する蔑視、あるいは労働に対する蔑視、商業に対する蔑視、こういうものでがんじがらめになった。

それでまた西学、西洋文化をも夷狄視していたんです。日本が幕末に開港したときに、それを見て朝鮮側は、

日本は西洋と同じ夷狄になったというわけだったんですよ』

世の中は、四方八方に流れていく。

各々が好き勝手に生きると管理しずらい。

儒教というのは、その流れを止めて固体化するもの。

固体化してしまえば、操作しやすいですからね。

高麗が470年、李氏朝鮮が500年続いたのは、国が安定していたのではなく、

それだけ強い中央集権だったからで、改革しようにもすぐ頓挫。そうして近代化に立ち遅れてしまった。

ゲーム三国志をやってみると、

これはもう、やらなきゃやられてしまうわけで。

それも、自分から他の国に攻め込もうもんなら、ハイエナたちが群がってきて自国さえ危うくなる。

なので、他の国が戦争始めたところに乗っかって、漁夫の利作戦。生き残るのは、これしかない。

第一次世界大戦の日本も関係ない所で漁夫の利。

第二次世界大戦のロシアもそう。

どさくさに紛れて、弱そうな所に付け入る。

生き残るためには、どんな大義名分も可能だ。

たとえば、

うちの主人が浮気して離婚したいと言ってきたら、

私は文句も言うかもしれないし、慰謝料を請求するかもしれない。

それでも、主人は慰謝料も払わず、謝りもせず、誠意のひとつもなく出て行ってしまうかもしれない。

不条理です。

でも、

結局私が納得しようがしまいが、

最後は、自分の足で立ってひとりで歩いていくほかない。

不条理だからといって、誰かが手を差し伸べてくれるのを待っていても

死ぬまで誰も助けてくれないことなんて、いくらでもある。

泣きながらでも前を向いて自分で立つほかない。

朝鮮は気の毒だったと思います。

今でも恨む気持ちはあるでしょう。

それも理解したうえで、

いい加減、大人になって欲しい。と、思います。

日本も充分すぎるほどの悲しみを生きる力に転換してここまでやってきた。

哀しくても辛くても、前を向きここまできた。

ギリシャも・・・

がんばれ。