李陵・山月記
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中国の古典を題材にした短編4作品。
あ~~~やっぱり中国はいい。感動、感涙。
この著者の文体は硬質でもサラっとしている。
感情をおさえながら、著者が伝えたいとしていることがぐぃぐぃ心に入ってくる。
文語調で、しかも読みやすい。
この『李陵』を読めば、万人が中国の古典を好きになるのではないかなぁ・・・
短いけど深い。
簡素ではあるが重い。
『弟子』
孔子と子路の子弟物語。
『この人と、この人を竢(ま)つ時世とを見て泣いた時から、子路の心は決っている。
濁世(じょくせ)のあらゆる侵害からこの人を守る盾となること。
精神的には導かれ守られる代りに、世俗的な煩労(はんろう)汚辱を一切己(おの)が身に引き受けること。僭越ながらこれが自分の務めだと思う。学も才も自分は後学の諸才人に劣るかも知れぬ。しかし、一旦事ある場合真先に夫子(ふうし)の為に生命を擲(なげう)って顧みぬのは誰よりも自分だと、彼は自ら深く信じていた。』
この文章に、ドラマ孔子伝の子路がよみがえり泣けてくる。
子路は弟子の中でも珍しく『武』のひと。
他の優秀な弟子たちと比べれば劣るところもあるけれど、
とにかく孔子のことが好きで好きでたまらない。大きな体で純粋無垢にひたすら孔子を愛する。
痛ましいほどの愛。愛に勝るものはない。
『李陵』
主人公は、漢の時代を生きる李陵、司馬遷、蘇武。
李陵は匈奴の数万の軍勢に5千の手勢で善戦するも捕えられてしまう。
国では、李陵が匈奴に寝返ったと謀られ、
その中で、唯一司馬遷だけが李陵がそんな人間ではないことを進言するが
逆に武帝の怒りを買い、司馬遷は宮刑にされてしまう。(宮刑とは、男性器を切り落とされる極刑)
司馬遷は自分が進言することで、命を落とすこともあるかもしれないとは思っていた。
しかし刑罰の中で、もっとも恥辱である宮刑を課せられるとは思ってもいなかった。
『司馬遷は自分を男だと信じていた。文筆の吏ではあっても当代の如何なる武人よりも男であることを確信していた。(中略)
車裂の刑なら自分の行手に思い描くことが出来たのである。それが齢五十に近い身で、この辱めにあおうとは!』
痛憤と煩悶の日々。
死ぬこと以上の苦痛苦悩の中から歴史家としての道を歩まねばという意識が芽生える。
生きることの歓びは失っても、表現することの歓びは息絶えることはなかった。
修史の仕事を終えるまでは、耐えがたくとも生きながらえなければならない。
その為には自分の身を亡きものに思い込むほかなかった。
李陵は、気を失ったところを敵に捕まってしまっていた。
敗戦の将では帰れない。手柄をたて(敵将の首を土産に)漢に帰る機会をうかがっていた。
匈奴の王は、敵ながら李陵の武を讃え、客人の扱いをした。
王の若い息子は、李陵の武勇を純粋に尊敬し、弓などの教えを請うようになり、2人で野を疾走する。
漢で、李陵の一族が武帝に皆殺されたことを伝え聞く。
敵とはいえ、李陵を勇将とみて、接してくれる匈奴と、妬みからあらぬ噂をたて、一族皆殺しにした自国の漢。
『漢の人間が二言目には、己が国を礼儀の国といい、匈奴の行を以て禽獣に近いと見做(みな)すことを難じて、単于は言った。漢人のいう礼儀とは何ぞ?醜いことを表面だけ美しく飾り立てる虚飾の謂(いい)ではないか。利を好み人を嫉むこと、漢人と胡人と何れか甚だしき?
色に耽り財を貪ること、又何れか甚だしき?表(うわ)べを剥ぎ去れば畢竟(ひっきょう)何等の違いはない筈。
ただ漢人はこれごまかし飾ることを知り、我々はそれを知らぬだけだ、と。
漢初以来の骨肉相食む内乱や功臣連の排斥せいかんの跡を例に引いてこう言われた時、李陵は殆ど返す言葉に窮した。』
功を立て是が非でも漢に帰るという李陵の強い思いは、月日と共に漢への憤怒と迷いに変ってきた。
そしていまひとり蘇武。
蘇武は匈奴に使節として遣わされたが、捕えられ、胸を突いて死のうとしたところを匈奴に助けられ、それからバイカル湖のほとりで極寒に耐え、氷を食べ、ねずみを食べ、匈奴の降伏にも屈せず、困苦の中でひとり戦うがごとく生きていた。
そんな蘇武に会ったとき、李陵は自分を恥じた。
『飢餓も寒苦も孤独の苦しみも、祖国の冷淡も、己の苦節が竟(つい)に何人にも知られないだろうという殆ど確定的な事実も、この男にとって、平生の節義を改めなければならぬほどのやむおえぬ事情ではないのだ。』
蘇武は機会を得て、19年ぶり祖国に帰ることになった。
司馬遷は、現実では一切口をきかず書物でのみ生きた。
李陵は故地で死んだという以外記録は残されていない。