悠久の片隅

日々の記録

<a href="http://ameblo.jp/fujiko-diary/entry-11223358645.html">志賀直哉</a>

志賀直哉の小説は、読みやすい。

その時代の文豪の重鎮で、その名前が重過ぎて敬遠したくなるけど、

名前の重さと小説の難しさは比例しない。

この目、この表情、いかにも自然な佇まい、

藤子のブログ

容姿そのものが風流だな~

うむ・・・

この自然な存在感が、この人で、この人の文章に思う。

志賀直哉集』を読んでいるのですが、小説も面白いけど

所々に挟まれてる随筆みたいなものが特に興味深い。

「年をとると・・・」といふ。

自分が年寄ったといふ事をエクスキュース(言い訳)にする傾向が近頃の自分に少しある。

これは悪い。やめよう。

過去を語る興味も面白くない。気の利いた人間のする事ではない。

聞きづらい事である。これもやめよう。

衣食住の通らしい事をいふ事。これも悪趣味。やめよう。

しかし他人の悪口はやめる訳には行かぬ。但し感情入りの悪口は聞き苦しい。

感情のなしの悪口差支えなし。

(略)

それから

幸福といふものは受けるべきもので求めるべき性質のものではない。

求めて得られるものは幸福に非ずして快楽だ。

快楽と幸福とは全然違った性質のものだが、若いうちはこれを混同する。

快楽は刺激的で、度重なれば1つの快楽も快楽としての価値を失ふ。

しかし、幸福は幾たび重なっても幸福としてその幸福感を減ずる事はない。

人の心でも自然でも美しいと感じる、直ぐそれが1つの幸福感になって感じられる。

これは受けるのだ。

刺激的な快楽より遥か以上のものである。

人に愛される人間は愛される事の喜びを知り、その事に感謝の念を持つ。

愛されるといふ事は刺激ではないから、それに慣れそれに鈍感になるといふ性質のものではない。

反対に人に愛されない性質の人間は愛される喜びを知らず又感謝の念も持たない。

これは面白いことだ。

愛が刺激のやうに慣れない事が面白い。

今の世界のことを考へると、多少虚無的な気持ちにならざるを得ない時もある。

このままで行けば、人間は滅びてしまふかも知れないといふ事なども考へる。

しかし、自分を人間以外の動物と仮想すれば、今の所謂(いわゆる)文明人が死に耐えれば、

この世界はもっと平和な、綺麗な世界になるかも知れないといふ風にも思へる。

人間は地球で他の生物無生物を征服したが、結局はそれらの物より先に絶滅する運命を荷っているような気がする。

科学が無制限に発達するといふ事が困る。

人間の徳性といふものは、これに伴って、進歩しないものだから。

「暗夜行路」の(前編)終わりの方にも書いたが、飛行機の発明などは、人間を大変不幸にしている。

人間は、元来地上にいるべきもので、空を飛んだり、地にもぐったり、水をくぐったりするものでなく、

そんな事をしなくても生きていかれる動物なのだ。

それが空を飛ぶと、それを悪用しないだけの徳性をもっているならかまわないけれど、

それを持っているのは、極く少数の個人に過ぎないから、戦争でも始まると、又、戦争を仮想して

益々発達して悲惨な事が起こり、今後益々その程度が激しくなろうとしている。

それから、飛行機の発明の為に、地球がどんどん狭くなるのも淋しい。

時間的に節約されると云うが、その為、人間は益々忙しくなり、時間に余裕がなくなる。

科学には何とかして手綱をつけなければいけない。

原子爆弾の発明など、手綱のないあばれ馬に乗せられたような感じだ。

人間の自業自得だ。

人間の力でこの地球を破壊する事も可能になったといふような話は、聴いて実に不愉快を感じる。

本当に可能かどうかは知らないが。

筑摩書房『志賀直哉集 現代日本文学全集』より抜粋。

書き写し間違い、句読点違いあったらスミマセンm(_ _ )m