<a href="http://ameblo.jp/fujiko-diary/entry-11232942940.html">メフィストフェレス</a>
芥川の『煙草と悪魔』 私的解釈
ファウストに出てくる『悪魔(メフィス)』が主人公。コイツw↓
「現世で幸せにしてやる代わりに、魂をくれ!」みたいな奴。(赤い服がトレードマークw)
悪魔はフランシスコ・ザビエルが日本に宣教師として来る時、一緒に船に乗ってきた。
最初は、
帆桁(帆の支柱みたいなもの)に尻尾を巻きつけて、逆さまにぶら下がりながら、
ひそかに船の様子ををうかがっていた。
なんて素敵な始まりなんだろ
悪魔が頭は動かさずに、目だけキョロキョロさせてる様子が目に浮かぶ。これは童話だねー☆。
そして、伝道師に姿を変え、まんまと日本上陸成功
ところが、
実際の日本は、マルコポーロが言う黄金の国でもなんでもなかった。
悪魔は退屈になった。
まづ、園芸でもやって、暇をつぶそうと考えた。
園芸だよ(・ω・)/ 可愛すぎるじゃないか。悪魔~~~
悪魔は、畑を耕し始めた。
ちょうど水蒸気の多い春の始めで、たなびいた霞の底からは、
遠くの寺の鐘が、ぼうんと、眠そうに、響いてくる・・・・・・・
西洋(の悪魔)から見た日本の風土の在り方みたいなものが、旨く表現されてる。
視覚(霞)も聴覚(ぼうん)も臭覚(春の始めの匂い)も触覚(水蒸気)にも、日本の春で満たされる。
人間の五感のうち四感に柔らかく入り込み
そして
『たなびいた霞』で横の広がりを、『遠くの寺』で奥行きを、『水蒸気』は上下と、
この空間遣いも参る。
『霞の底から』というのも、同じ鐘でも(教会の)頭上から響く音と違うことを示し、
日本の鐘の(お腹に響いてくるような)低音を感じさせてくれる
遠くの寺の鐘が、ぼうん、と眠そうに響いてくるって。
『ボーン』だったら元気な音に聴こえるけど、『ぼうん』とは、よく言い表したものだヾ(@°▽°@)ノ
しかもこの区切り方のリズム好き。
充分、(自分が)悪魔の気持ちになれるでしょ
こんな風に文字にしてしまうと国語のテストみたいで情緒もなんもなくなるけど(・・;)
詩であり、絵画であり、音楽であり、
この文章は、読めば読むほどに感心する。
1度この梵鐘の音を聞くと・・・・・
ってね。
芥川は次の段落では、もう『寺の鐘』とは言ってない。
悪魔が鐘の音を聴いて、心がぽわんとなってからは梵鐘という言葉に変わってる。
この辺の悪魔の内心の変化(西洋の教会の鐘の響きとは音だけでなく、原点、観念が違うものとして)を表している。
見逃しそーな心憎さだよ。
悪魔は
善をしようという気にもならないと同時に悪を行うという気にもならず、
そんな道徳的の眠気を払おうとして、
一生懸命畑を耕し(労働なんて大嫌いな悪魔がw)自分の国から持ってきた植物の種を撒いた。
ここから、あーだこーだあるけど、
結局は
人間は、この悪魔に勝つのだけど、
悪魔の撒いた植物の種とは煙草のことであった。
海外から入ってきたものは、聖書という良いものだけでなく、
セットで煙草という悪も入ってきたという想像の物語。(実際は煙草がいつ日本に入ってきたか定かでは無い)
これは煙草だけのことではなく、
成功には堕落という一面も背負ってる。それは、悪魔にも人間にも言えるって話です。
最後のしめくくりもいい。
その後、日本に悪魔はいなくなったらしい。
ただ、明治以降、再び、渡来した彼の動静を知る事が出来ないのは、返す返すも、遺憾である・・・(てんてんてん)
(大正5年10月21日)
カッコイイなー
(太宰治もシメがかっこいい)
心憎いでしょう。
悪魔は、今、現在も誰のソバにでもいるってことを、こんな風な形でしめてる。
悪魔なんだけど、この悪魔憎めない
自国で読んだマルコポーロの東方見聞録は嘘だったか ∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
っていうのも面白いし(実際マルコポーロは日本になんて来ていないw)
初めて経験する日本の風土の中で、ともすれば悪魔(自分)の本分さえ見失いそうになるしw
その為に、労働(精進)に励むしかなくなる皮肉さもいい。
大正5年に書かれた作品。
その頃は海外から、目を見張るような様々なものが、一気にもたらされたのだと思う。
モノもだけど、思想だったり、宗教だったり、経済だったり、文化だったり、戦争だったり、革命だったり、
人々の驚きようは、今以上だったと思う。