悠久の片隅

日々の記録

<a href="http://ameblo.jp/fujiko-diary/entry-11236605019.html">芥川 手巾</a>

面倒なので、あらすじは書かない。自分勝手な解釈の覚書き。

主人公の設定は新渡戸稲造を連想させる。

武士道は、これしか読んでいない。

『武士道』を読む 新渡戸稲造と「敗者」の精神史 (平凡社新書)/太田 愛人

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これだって登場人物が多くて迷走し、よくわかってない。

あと5回くらい読まないとわからない。

と言うより武士道を読まずにこっちを読んでるからおかしいのかな?

どっちにしろ、私の人生であと5回読むことは無いと思うので、

未処理というファイルに入ったまま削除もされず埋もれていくように思う。

さて、本題パー

『黄いろい布表紙の本を・・・』と出てくる。

嫌な予感(笑)

歯車を読んでから・・・芥川が『黄いろ』を持ち出すたびに条件反射でドキとする。

ほとんどノーカラーでイメージしてるとこにもって、黄いろはインパクトありすぎる。

訪問する女性をかなり高い場所に持ち上げて表現している。

逆に、芋粥では主人公を『某(なにがし)の五位』と、かなり低い場所へ押し下げてる。

この極端が、芥川だと思う。

だいたい、主人公に『某(なにがし)』とは、見た目や性格を下げて書くより余程手ひどい。

名前くらいつけてあげても、充分まだ可哀相なのにあせる

登場人物たちが主人公をこぞって虐めるのは良いとしても、作者が一番ひどい(笑)

手巾の場合は主人公のテンションを少しづつ上げていって、ラストに一気に下げる為の演出かな。

さて本題②パー

婦人が息子の死を告げる。

それを聞いた主人公は、その話より、今現在目の前にあるお茶に右往左往。

そんなことを考えてたので出てきた言葉が「そりゃあ」

やはり人は、

こんな場合でも、人の話より実際自分の置かれた状況が優先になる。

人の死を聞いて

その瞬間コーヒーカップを落として割るなんていうのは、お芝居の中の話で、

コーヒーカップはテーブルに戻すものだ。

人は、悲しみと常識はちゃんと意識の別に考えている。

最初の方で、主人公は考えてた。

武士道は、欧米各国の基督教的精神と一致すべきものさへあるアップ うんぬん

欧米各国と日本国民の相互を理解を容易にするアップ うんぬん

自ら東西両洋の間に横はる橋梁になろうアップ うんぬん

それを考えてた時には『調和』という言葉が使われていた。

相当の自負があったのだろう。

ところが、書物を読んだら、

同じ事柄が、続けて起こった。

武士道の絶対的なものが

マニュアルという作為あるもの(不安)にすり替わってしまった。

別々に起こったことなら、関連づけて考えなかったかもしれないが、

立て続けで起こったとあれば、単なる偶然と言うよりは、そこに何かの意味を探さずにはいられなくなる。

なんの暗示かと。

急降下。ストーンと落とされた。

欧州が遥か遠くに思えたのかもしれない。

日本と欧州の架け橋になろうとまで考えていたのに(すでになってたかも)、

その確固たる自負が、一瞬にして心もとないものと思えたかもしれない。

またそれを提示した本が、読んでも読まなくていいような自分とは対極と思えるものから発生したことで、

しかも学生からの掲示というのも、校長としての自負を覆されたかもしれない。

その辺はわからない。

もっと漠然としたものかも。

どちらも、学生から派生したものと考えれば、そこに何かの因果関係を・・・と考えるかも。

歯車でも芥川は出来事を暗示として気にしている様子が伺われる。

本を読むとたった数行の文章で、自分の考えがコロッと変えられ、ジタバタすることはよくある。

芥川の小説は、必ずそこに自分(私)がいる

そして、どれも羅生門に戻ってしまう。

本を読んで、自信をなくす主人公。

おばあさんの言動で、自信をもつ主人公。

『黄いろい布表紙の本を・・・』は暗示だったかな。それとも必然・・・