悠久の片隅

日々の記録

<a href="http://ameblo.jp/fujiko-diary/entry-11281490349.html">アレクサンドリアNo.2</a>

アレクサンドリアの映画は不発だったらしい。

考えてみれば無理も無い。

この映画はスペイン製作の映画でキリスト教を悪く描いている。

キリスト教の国で、随分思い切った映画を作ったものです。

でも興行収入は別として、私は大絶賛。

確かに、キリスト教徒は敬遠するだろうし、無宗教だと理解しずらい設定ではある。

最初、

ヒュパティアが公衆の面前で、弟子のオレステスに愛の告白をされるシーンがある。

自作の曲を笛を奏でて「貴女の中の調和を愛している」と。

その返事として

ヒュパティアは、これまた公衆の面前でオレステスに自分の生理で汚れた布を渡す。

「私にあるのは調和でなく、汚れです」と言う。

オレステスのロマンチックな告白に比べ、

ヒュパティアのなんと哲学的なこと!本質のみで美しさの欠片もない(笑)

それは「私は生涯、愛より哲学をとる。」という自分の生き方の決意表明だったのだと思う。

でも音楽を哲学で返すなんて、逆に詩的に感じてしまう。

そして、その落ちた布を拾いそっと抱きしめるダオス(ヒュパティアの奴隷)

その2人の男性のヒャパティアへの愛は、情勢がどうなろうと、変わらないのだけど、

結局は彼女を守りきれなかった。

ヒュパティアが学問を捨てられなかったから。

当時の宗教では女性の社会進出は認められていなかった。

今でもイスラム教がそんな感じに思う。

女が外に出るようになると、家のことが疎かになる。

それは家庭内の不和、ひいては世の中の平和を乱す根源になりかねない。

だから女性の社会進出は悪。重く罰しなければならない。という、考えに基づいている。

(←ちょっと耳が痛い)

そして哲学もまた、宗教からみれば異端であった。世を惑わすもの。

そうのような理由で、魔女狩りの成敗は普通の刑と比べてより残酷です。

これは、愛と宗教の有り方を宇宙の尊厳と絡めて描く壮大な物語なんだけどなー。

この映画が何を描きたかったかは、わからないけど、

昨日までは異端とされていたキリスト教が国王にに支持された途端、

今度は国の宗教として天下をとり、他を異端とし排除始める。

力をもった時の群衆の思いあがりの怖さを思う。

そういう意味でいうと

映画「ホテルルワンダ」を思い出す。