悠久の片隅

日々の記録

<a href="http://ameblo.jp/fujiko-diary/entry-11314557402.html">川、河、</a>

蛍川・泥の河 (新潮文庫)/宮本 輝

¥420
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夏休みのせいか書店には新潮100冊が並んでいた。

星の数ほどある書物の中から厳選に厳選を重ねての100冊なのだから

面白い面白くない以前に、そこには何かあるはず。

これは、そこからの1冊。

泥の河も蛍川も背景は昭和30年代。

戦後10年たったというものの、まだ日本は戦後というものから、脱けきれてはいない。

古いぽんぽん船をすみかとする者とコンクリートのビルの町並み

貧しさと経済発展が混在する町の風景がここそこにあった。

そうだ、日本はまだまだ貧しかったのだ。

当時を頭に描けば、

経済の豊かさを追い求めていくのは拙いながらも夢であり、それを現在だけの目で見て

すべてが間違いであったと言い捨ててしまうことはあまりに乱暴だと気付く。

あの時代は、とにかくが必死なのだ。

今は生活が厳しいといえども、車も携帯も持ってる。お風呂も毎日入ってる。きれいな服も着てる。

その上での生活の厳しさというものをどう判断してよいものか、私にはわからない。

それでもこの小説の子供たちの繊細な心を思うと、今の子供たちにこのような情緒があるのだろうかと、

また別な意味で現代の貧しさを痛ましく感じる。

泥の河・・・

少年(信雄)は、日々の水にも事欠く少女のところに、

自分の家の冷えたラムネを持って行ってあげようと思いつき、駆け出すが

『昭和橋の真ん中まで戻るとラムネの壜を川に投げ捨てた。なぜそうしたかわからない。

立ち停まり立ち停まりしながら、信雄は長い時間をかけて橋を渡った。』

とある。

ぁぅぁぅ・・・こういう場面はたまらない。

最初は、少女の喜ぶ顔が見たくて駆け出したのだと思う。

でもその純真な少女を思い浮かべた時、その少女への淡い気持ちと共に、

ラムネ1本で、自分の家と少女の家の格差を際立たせることへの不安、

無邪気に施すことは、なにかが違う・・・

子供から大人に成長するというのは、こういう人の心の機微を敏感に感じていくことなのかもしれない。

昭和橋の真ん中・・・というところに

昭和という時代の少年の半々に戸惑う心が表されていて、

そういう子供の心情を見つめる著者は深い深い。

ラストシーン、信雄の声は届いているはずなのに、2人は姿を表さない。

2人は身を堅くして、涙をこらえているのだと思うが、何一つ描かれていない。

そこにこの物語と著者のすさまじさを感じる。

少年に売春シーンを見せたまま、少年達の友情さえもなんの解決もつけず、

少年の悲しみと必死さだけを残し著者は物語を終えてしまうのだ。

少年の叫びは読者の叫び、その悲痛な叫びを置き去りに船は去って行ってしまう・・・

住んでいる世界は泥の川である。

でも、どの時代もそこに生きる人々は親も子も懸命で、

その泥の川を、思いやりというものに変換し生きてる。

蛍川・・・

小2の少年が幼馴染の少女と押入れの中でのシーン、

少女のパンツを脱がして、少年がそのお尻の穴をさわる。

「・・・うん、長いことさわっとった。押入れの中は真っ暗で黴臭かったがやけど、

襖のあいだからちょっとだけ光が入ってきとった。俺、自分の指を、

そのうち尻の穴に入れてみとうなったがや。」

暗闇の中で一筋の光、子供とはいえ、ゾクゾクするような感覚だけど

私は保育園のお昼寝の時間に、よくこういうことをしてた。(されてた)

著者の経験か、人の本能か、知識か・・・、

どちらにしても決して虚構の世界ではない真実の世界を書いてる。

『蛍の大群は、滝壺の底に寂寞と舞う微生物の屍のように、

はかりしれない沈黙と死臭を孕んで光の澱と化し、

天空へ天空へと光彩をぼかしながら冷たい火の粉情になって舞いあがっていた。』

滝壺とあるけど、感じられるのは無音。

無数の蛍が交尾の一瞬に生命のすべてをかけ、蒼く瞬き、そして屍を残し死んでいく。

これは人間の姿なのかもしれない・・・・・

人間もそんな一瞬を生きているのかもしれない。

この2つの物語とも、

ふと、死んでいく人がいる。

さっきまで元気だった人間が次のページには死んでいる。

父の最期の言葉もよく聴き取れず、その本心もよくわからず、

でも

人間の本心なんてものは、結局本人しかわからない気がする。

本人だってその瞬間でしかわからないのかもしれない。

泥の河、蛍川、

泥と蛍・・・・・河と川・・・・・・

2つの作品は繋がってはいないけど、

流れているものは同じ。

富山の冬、三味線の音、描写がすべて透き通るように美しい。

そこに生きる人の懸命さも美しい。

情景にも心情にも著者の繊細さを感じる。

新潮の100冊は、やはり意味のあるものだと思う。