悠久の片隅

日々の記録

<a href="http://ameblo.jp/fujiko-diary/entry-11320848039.html">きりぎりす</a>

きりぎりす (新潮文庫)/太宰 治

¥578
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新潮100冊の中の1冊。

太宰中期の短編集。

『燈籠』

不器用な女性(さき子)が、不器用に恋をし、万引きまでして捕まり、世間から蔑まされ、

最後は

家の電球を替え、その明るさにはしゃぎ、

私の幸せはこんなもの。と、その慎ましき幸せに気付き、喜びを得る話。

太宰作品は、いつも不器用にしか生きられない者側の目で、

そこが太宰作品を受け入れられるか、られないか、だと思う。

世の中には、器用に生きられる人間と、不器用にしか生きられない人間がいる。

器用な目で見れば、この主人公は馬鹿です。負け組みです。

相手を喜ばせるために、万引きなどして頑張りどころが違ってる。

思うに不器用な人というのは、相手の心を汲むのが上手くない。そして思い込みが強い。

用心に用心を重ね、よかれと思ってやったことが、裏目に出て、

思量が足りないことになってしまったり、

逆に慎重にならなければいけないとこで、短絡的になったり、

言い訳したいことだってあるのに、うまいことばが出ず誤解されたまま終わってしまう。

この話も万引きは罪だけど、彼女の思いには罪が無い。

でも思いの相手から来た手紙には

「さき子さんは、正直な女性なれども、環境に於いて正しくないところがあります。

僕はそこの箇所を直してやろうと努力して来たのであるが、やはり絶対のものがあります。

あーじゃない、こーじゃない・・・うんぬん・・・」

「やはり絶対のものがあります」とは

不器用さを絶対だという、ここがどうにもやりきれない。

太宰は、子供の頃先生が大事な話をしている場面でヘラヘラしてしまう。

そして体罰を受けるようなことがあった。

ふざけているわけではなく、

不安を道化に摩り替えてししまう子供なりの不器用な防御反応だった。

不器用は絶対のもの、なんとかしたくても愚直にしか生きられない苦しさを太宰は知っている。

若かりし頃、職場で仲間はずれにされている男の子がいた。

私はそういう子が嫌いじゃない。

大勢でしか動けない人より話しやすい。

だから、ポツーンとしている時はよく声かけてた。

そうしたら

「藤子さんは女神様です」から始まる便箋20枚にもわたるラブレターがきた。

2行目は

「女神様がタバコを吸ってはいけません」

もうラブレターだかお説教なんだか。

しかも、2,3時間かけて歩いてうちのポストに入れたという・・・なんとも・・・

思いは間違ってない。

頑張れば思いは伝わるかもしれないけど、通じるのとは違う。

頑張りも度が過ぎると、かえって引かれると・・・

力加減、匙加減の不器用さが、

周囲とよい加減で溶け込めず孤立の原因になるのでしょう。

不器用な人は生きにくいと思う。

それを蔑む人もいる。

でもそういう事実は変えられない。

どれだけ泣こうと、悩もうと変えられない。

器用な人間が、不器用な人間に優越感をもつのは差別の始まり。

イジメとはそういうところから発生する。

器用に立ち回っている人間も内面では自分の弱さと闘ってる。

誰もが自分の弱さとおっかなびっくり闘いながら、

なるべくその素振りを見せないように生きているんじゃないかな。

皆、弱い人間である。

不器用な人間ほど、太宰作品は共感もてるかもしれない。

そして私みたいに、何を勘違いしてるのか世の中上から目線で見てるような人間には、

内面を暴かれるような痛さがある。

『畜犬談』

「私は、犬に就いては自信がある。

いつの日か、必ず喰いつかれるであろうという自信である。」

から始まる。

これは大袈裟でなく、太宰は心から犬に恐怖してた。

感覚の鋭敏な人間は犬の鳴き声もライオンが吼えるぐらいに感じられるのだと思う。

人に見えないものが見え、聞こえないものが聞こえる。

その恐怖を描こうとしたら、

あまりの恐怖は、文章にすると滑稽になってしまった。だからユーモア小説にしてしまった。らしい。

太宰が恐怖からこれを書いたのかと思うと、余計可笑しい。

この『きりぎりす』は、1作1作、短編ではあるけど、丹精込めて書かれている。

心から書いている。

どれも人間の深いところのどうしようもない部分が収められている傑作。

人間失格が一番好きだけど、こちらの短編もいい。

どの話も思うところがありすぎて、どうしていいかわからなくなる・・・

「作家は弱い人の味方でなければいけない。」太宰はその思いが強いように思う。

今日は、枝豆を茹でてつぶして、ずんだを作りました。

藤子のブログ